ある種の“陰”のキャラクターの話がしたい。
いわゆる陰キャ、内向的なコミュ障。あえて曖昧な定義を使う。クールキャラとはまた違う、オタクとも限らない。
いわゆる陰キャの心理や質感、生活の中での他者との関わりに焦点を当てた作品。令和の今、それは珍しくない。陰キャやコミュ障という言葉で同じように呼んでいても、その内実は作品やキャラによって全く異なっていたりする。
その中の一つの類型。
自分用メモの側面が強く、感覚を吐き出すのが主眼であるため、詳しく解説はしない。
遊戯王VRAINS46話、1年目の最終戦。
藤木遊作/プレイメイカーは、自分では自らの心の孤独をロスト事件(幼少期に受けた誘拐・虐待)の影響によるものと言っている。
だが、同じロスト事件被害者でも遊作ほど他者との関わりに消極的なキャラはいないこと、両親も死んでいてより悲惨な目に遭っている穂村尊/ソウルバーナーが特にコミュ障さを感じさせないのを見ると、ロスト事件の影響も手伝ったのだろうが孤独の主因は遊作自身の元来の性格に見える。
見ている世界を共有できない孤独。
その言葉だけで説明できるものでもないのだが、ここではその側面に重点を置いて考える。
ロスト事件から解放された後もトラウマは残り、自分自身の過去に決着をつけるために戦いに身を投じていくのだが、特に人間不信に陥っているような様子、周りに嫉妬して攻撃性を向けるような様子はなかった。
同志として心から頼りにしている草薙翔一もいたし、「責任感のある大人」を代表する財前晃のように事情を知って親身になってくれる人もいた。誰に対してもそっけないが、20話でファイアウォール・ドラゴンの効果を通して晃にメッセージを伝えたシーンなど、他人の優しさを汲んで自分自身の優しさを伝えられる時もあった。
だがそれでも自然体の自分を出し切れていたわけではなかった。見ている世界を共有できる相手が欲しい、話せていないことを話したい、そんな欲求が常に心の底に燻っていたのではないだろうか。
だから、ようやく見つけた「本心を話せそうな相手」、同じ運命の囚人として過去を共有できる(ように見える)鴻上了見/リボルバーに、思いっきり自分の理想を投影する。
過去に何が起きたか知ったのが理由とはいえ、世界の命運を賭けた戦い、それも絶望的に追い込まれた状況での宿敵に対する告白(?)に、言われたリボルバーも一緒に戦ってきたAiも唖然としている。
結論から言えば、この戦いを経た2年目・3年目で遊作と了見の関係はそれほどガッツリ発展はしていない。遊作は一貫して了見を信頼し続けたし、自然と共闘するようにもなったが、結局同じ道を歩んではいないし、最終的に了見が自らの過去を越えるデュエルの相手に選んだのは遊作ではなく尊だった。
だが……
確かに理想の投影だったが、ただの理想の投影ではなかった。
本人に思いっきり塩対応されても、誰にも理解されなくてもブレることのない熱量。理想の投影から生じたそれが絶望的な状況を覆し、勝利を手繰り寄せてみせた。
何よりも、
優しげな笑みや挑発的な笑みではなく、本気で高揚した笑みを遊作がデュエル中に浮かべていたのは、VRAINS全編通してこのデュエルしかない。
それも、
最初から高揚した笑みを浮かべていたわけではなく、攻め手が悉く凌がれてリボルバーにEXリンクを決められ、逆転困難な状況に陥ってはじめて、普段は追い詰められた時でも浮かべない「柄にもない笑い」を見せている。
いわゆるジョジョ5部的な「覚悟」、「おもしろくなってきた」の境地の一種がこれなのではないだろうか。
遊作は別に戦闘狂キャラではなく、普段から追い詰められるのを楽しんでいるわけではない。この戦いの時のみ逆境を本気で面白く感じている理由。それは自らが戦う理由、そこに立って目の前の壁に挑む理由に、それまでの戦いとは異なる心からの納得が存在するからではないだろうか?
まどマギ9話の杏子の熱量にも近いと思う。戦いの意義への納得、自らの手で運命を切り開いていく感覚。言ってしまえば普段の孤独感の反動から生じた、裏付けに乏しい理想の投影由来の熱量であり、カッコいい一方で冷静に考えるとちょっと危険な心理だったりもする。
だが、
大事なのは、遊作の了見へのスタンスが理想の投影「だけ」ではなかったことだ。
このデュエルだけで了見を改心させることはできず、了見は塩対応のまま遊作の前から去っていく。だが遊作は了見に相手にされていなくても動揺したり理想を押し付けたりはせず、再び会う時が来ること、了見が変わっていくことを慌てずに待った。
ここが実は本質であり、孤独を抱えつつもなんだかんだで自己完結している(完結しすぎているきらいもある)遊作の強みであるように思う。理想の投影から生じる熱量を強みにしつつ、理想の投影に振り回されているわけではない。鷹揚さが全体的に見られる。
2年目で再登場した了見はすぐには変わらなかったが、共通の敵であるライトニングやボーマンとの戦いの中で次第に態度が軟化していく様子が見られ、
最終的には、
1年目のラストとは逆に、了見が遊作を信じて待つ構図となった。
他人を伴わず一人でAiとの決着に赴く遊作の意志を尊重しつつ、最終戦のキーカードの一枚(ヴァレルロード・F・ドラゴン)を投げ渡して背中を押し、決戦後に遊作が行方を絶っても必ず帰ってくると力強く言い切る。互いにそっけなく最後はそれぞれ別の道を行きつつ、根底には互いへの強い信頼があるこの二人らしいと言えるだろう。
一方で、1年目の最終戦と同じようなデュエル中の高揚を遊作がもう一度見せる機会はついに訪れなかった。
2年目以降は遊作の関係性の軸足が了見からAiに移っていたこともあり、遊作が理想の投影を必要としなくなったとも言える。その反面で、復讐や理想の投影に代わる新たな戦いの意義、本気の熱をもって挑めるものを最後まで見つけられなかったとも言える。
「見ている世界を共有できない孤独」に加え、この「本気になれるものの欠如」に焦点を当てながら、次の話に移っていく。
マギアレコード、保澄雫MSS1話。
先ほどまでの遊作より明確に、自らの孤独の原因を元来の性質と捉えている。実際その通りだろう。環境に問題があるわけでも過酷な過去があるわけでもなく、内心の孤独を隠せば普通に友達付き合いもできる。
だからこそ、見ている世界を共有できない孤独を誰のせいにもできない。そしてその断絶感の根底にあるのが「関心を持てるもの・本気になれるものの不在」であることが冒頭から示されている。
「やりたいことの不在に悩む」性質は、雫に限らずマギレコの光属性キャラ全般に広く見られる。もっと言えば、まどかや織莉子といったマギカシリーズの過去の光属性キャラも同じテーマを持っている(まどかMSSではよりはっきり、雫とまどかが互いを「自分と同じ」だと気付くシーンがある)。
だが雫の場合は他の似たキャラと比較しても内向性が突出しており、サブの位置から始まったキャラでありながら時にメインストーリーの流れとリンクして、長きに渡り己の心の答えを探し続けることになる。
そして想いを寄せたふーにいの死をきっかけに、「居場所」探しを始めることになる。
雫のモノローグとふーにいの台詞をよく見比べると、同じものを目指しているように見えて全く違う。ふーにいは死に場所を探しているのに対し、雫は自分の夢、やりたいことを探している。雫は「居場所」のワードと不可分のような印象を持たれがちだが、実はふーにいが死ぬ前は雫はこの言葉を使っていない。
だが雫にとって、居場所を求めて放浪するふーにいは、初めて見つけた「自分と同じかもしれない人」だった。自分がしっくりくる場所を見つけられない感覚、同じ孤独を抱えていて、互いに通じ合えるところがあったのは事実だった。ふーにいとなら見ている世界を共有できそうに思えた。理想の投影である。
ふーにいは事故で唐突に死んでしまう。このことで「終わりはいつ訪れるか分からない」という事実を強烈に叩きつけられたのも加わり、以後の雫には生き急ぎ癖がつく。ふーにいが探していたものと自分が探していたものを同一視するようになってしまう。
「居場所」のワードは1部における雫の基礎になっており、この言葉を起点にして色々なことを考え、様々なキャラとの関わりを積み重ねてきたのは事実だ。その反面、このワードは雫に自らの本来の願いを見失わせる呪いとしても機能している。
みかづき荘に招かれて温かく迎えられ、一度は腰を落ち着けかけるも結局急に去ってしまったこの時の心情も、「同族でない」「自分は疑似家族にはなれない」のを直感したことが大きいように思われる。
この時雫を誘ったいろはの接し方は雫の人格をかなり尊重したものであり、一度はそれに絆され、みかづき荘の方は本気で雫を疑似家族の一員として受け入れるつもりだった。一方でこの雫の直感が間違っていたとも思えず、ここで踏みとどまったとしてもいずれ出ていくことになったと思う。
つまるところ、見ている世界を他人と共有したいと願い、他人との繋がりを求めつつも、一人になれる時間がないこと、自分のことを自分で決められないことにも耐えられない。周囲と異なる自らの興味関心に忠実に動くので、良きにつけ悪しきにつけ行動が常にどこか唐突になる。そういうところにある種の陰キャの本質がある。
だから……
その後最も長い付き合いになる毬子あやかが、方向性の異なる陰の者なのも不思議なことではない。
あやかは雫ともふーにいとも全く違うタイプに見える。雫の方も、あやかが自分と同じ視界を共有できるとは思っていない。
だが、見ている世界を他人と共有できない人間なのはあやかも同じだ。自分の興味関心(つまらないギャグセンス)に忠実に動く結果、友達付き合いは雫より少なく、自分の好きなものを他人と共有できない。にも関わらずいつも笑顔でいて、他人も笑顔にしたいという気持ちに曇りがない。
あやかには潜在的に雫と近しい性質があり、しかし雫にないものを持っている。雫があやかに惹かれた理由には様々な側面があるが、ふーにいの時と実は似ていて、無自覚に同族の匂いを感じ取っているように見える。後に雫と同じようにあやかに惹かれて弟子入りした桑水せいかも、あやかのギャグに惹かれたのではなく、ギャグがウケていないのに折れないハートに惹かれていた(その結果、陰の者濃度の凄まじいトリオが誕生していた)。
見ている世界を共有できない孤独を抱えた同族というだけなら、マギレコ世界に他にも該当するキャラはいる。その中でもふーにいやあやかのように、「微妙に抜けたところがあり、報われない」「だが志に嘘はない」人に強く惹かれる傾向が雫にはある。本人にも自覚なく「この人には自分が必要だ」「この人となら必要とし合える」という直感が発生しているのではないだろうか。
ふーにいの時は理想の投影の色が濃かった。あやかと雫は見ている世界を共有できないのが明らかで、理想の投影のしようがない。だが、だからこそその後が続いた。
通じ合えると感じた相手、興味を持った相手のことはよく見ている。だから、あやかの様子がおかしいと感じた時は躊躇なく内面に踏み込み、その心の問題を取り除いた。
願いで得た自らの明るさは偽物ではないかと悩むあやかに雫がかけた言葉は、あくまで願いで性格を変える以前のあやかを知らない立場からのものだ。そしてだからこそ、「無理をしている感」なく背中を押す言葉になっている。
現に「今のあやか」に勇気をもらい、今のあやかのことをよく見ている視点から率直に感じたことをそのまま、しかし順序立てて伝えた。だからこそ、笑顔の裏にたった一人で悩みを抱え続けていたあやかの心にも響いたのだと思う。
その後「居場所探し」の相談をあやかにするようになるが、ふざけられてしまいあまりに進展がなかったことから、みかづき荘の時と同じようにあやかの前を去ってしまい、マギウスに勧誘と洗脳を受けたのも重なって不安定な状態に陥る。
そして……
令と郁美との出会いもあり、回り道に回り道を重ねた末、ここではじめて自分にとっての「居場所」の中身を定義する。
自然体の自分でいられる関係が欲しい。本心を出したい。それは元々抱えていた渇望の全てではないが、「居場所」という言葉から前進した言語化としては大きな意味があった。
自然体でいられる居場所。それが具体的にいかなるものなのか、この時点(羽根の行方イベスト、1部終盤)ではあやか達との和解やマギウス関連のゴタゴタで精一杯で、「その後」が描写されるまで待つ必要があった。
そして2部に入る直前。一見目立たないハロウィンのミニストーリーだったが、
そこにはきちんと1部での関係の蓄積を踏まえた中間着地点、「居場所」「自然体」の答えがあった。
雫とあやかの間には越えられない断絶がある。それはどうやっても埋めようがない。見ている世界を共有できない孤独を解消することはできないし、見据えている夢も違う。
そのことを互いに知った上で、なお望んで一緒にいる。互いに自分の存在が相手にとって大事なものだと理解し、それを前提にした付き合いができるから、お互い良い意味でワガママになりながら相手への気遣いも自然と出せる。この二人は別に幼馴染ではないのだが、概念幼馴染とでも言うべきだろうか(?)。
見ている世界を共有できる理想の関係になれなかったとしても、なお断ち切ることのできない大切な繋がりがある。
そんな関係を、このやり取りが端的に表現していると言えるだろう。
このシナリオは「頼らせてほしい」というあやかの「お願い」を中心にした一見地味なものに見えるが、そこではこの二人だからこそ成立した「頼る・頼られる」呼吸の仕方がきっちり描かれている。
現在この記事を書いてる時点では2部の後半に入り始めた辺りだ。2部中盤以降、メインストーリーと連動して雫の存在感は増していったが、既に半分以上は越えているはずの「居場所」のワードが一人歩きしている節も時折見られた。
こういう「懐の広いキーワード」が、当初は物語の深化に貢献していたものの、話が進むにつれ一人歩きし、字面の印象に引きずられていく現象は作品問わずよく見られる。「絆」、「心の闇」、「希望と絶望」など。
しかし、令や郁美との関係の変化を見ていても、1部終了後の雫の繋がり描写には、「頼る・頼られる」を描くことに重点を置く傾向が当初はあった。
これは自然なことだ。自分の興味関心に従って動くといっても、同じマギレコキャラのアリナ・グレイのような超人ではないので、誰にも依存せず一人で歩き続けられるほどの強さはない。かといって自分の道を自分で決められないことにも耐えられない。
そんな人間こそ「頼る・頼られる」とは何かを知る必要があるからだ。
この「頼る・頼られる」及び、ここまで扱ってきた「同じように孤独な同族への共感」と関連して、最後にもう一つ取り上げたいエピソードがある。
といっても、ここまでとは違って「ある種の陰キャ」の話ではない。
遊戯王ZEXAL134-135話、カイトとミザエルの最終戦。
カイトは特に陰キャやコミュ障ではなく、謂わば正統派クールキャラだし(遊戯王キャラなので奇行は山ほどあるが)、孤独にしても元来の性質由来というより環境が原因であることが明示されている。ここまで扱ってきた例とは明確に性質が異なる。
しかし、このエピソードにおけるカイトの言動にはそれらの違いを超えた普遍的なテーマが滲んでいる。
引用させていただく。
https://slowly47837.hatenadiary.org/entry/20131222/p1
ミザエルに、お前はドン・サウザンドに利用されたのだと、ジンロンは言う。このデュエルで、お前の進むべき道を見つけろ、と。
ミザエルは、真実を知り、激しく動揺する。
バカな!この私が、ドン・サウザンドに!
ならば、私が信じてきたタキオン・ドラゴンが、
ドン・サウザンドの呪いだと言うのか!!
私は信じぬ!
タキオン・ドラゴンが私を裏切るなど!!
カイト「それでいい。
それでこそ、真のドラゴン使い。
お前はいつでもドラゴンを信じてきた。
今度こそ、自分の運命を諦めるなよ!」
真実を知ってもなお、時空龍を信じ続けるミザエルを、カイトは否定しません。
このシーン、このカイトの言葉にぐっときました・・・。
それは、同じドラゴン族使い、銀河眼使いだからこそ、
ミザエルの気持ちを理解してくれている、のかな。
106話のカイトの台詞を見ると、いかにカイトが自身と銀河眼との絆を強く信じているのかが分かります。
その点では、カイトとミザエルは本当によく似ている。
106話の遺跡回で、ジンロンはカイトにこう言ってます。
「お前にはどんな窮地に立っても、決して己の運命を諦めない力がある。
自らの命を諦めたミザエルと違ってな。」
ミザエルに、自分の命を、運命を、諦めて欲しくなかったジンロンのその思いを、
カイトはちゃんとくんでくれた。
だから、「今度こそ自分の運命を諦めるなよ!」と言ってくれたんですね。
https://slowly47837.hatenadiary.org/entry/20131229/p1
なぁ、ミザエル・・・。
もし、次に出会える事があったなら、
お前に何があったのか、聞かせてくれないか?
今なお銀河眼との絆を強く信じ続けるミザエルに対し、
カイトは自分は銀河眼を「利用しただけだ」といい、
ミザエルのように最初からドラゴンを信じてた訳ではなかった事を告白しています。
だから「最強のドラゴン使いは、お前だ」と認めたのかな。
それでも「ギャラクシーアイズに導かれ」、
遊馬達と出会い、仲間達と、銀河眼との絆も芽生えた。
カイトは過去の自分が、誰も信じる事が出来なかった事、
それがかつての己の欠点であった事を、認めています。
WDCまでは、カイトは誰にも頼らず、自分一人の力でハルトを救おうとしていた。
弟の命の危機に、父親の豹変、Mr.ハートランドの過酷な訓練と指令、師であるVが突然去った事。
人を信じず、頼ろうとしなくなったのは、こうした事が関係しているのだと思います。
思い詰めたカイトは、たった一人で戦う決意をする。
その為には犠牲も厭わず、悪魔に魂を売ってまで・・・。
そのお陰で、強靱な精神を持つようになりましたが。
人を信じないままではいけなかった事を、今のカイトはちゃんと分かっている。
それを教えてくれたのが、遊馬だった。
かつては同じように人を信じなかったカイトだからこそ、
人を信じずに、ドラゴンに強く執着するミザエルを、理解する事ができた・・・。
そして最後に、ミザエルに「次に出会える事があったなら」と語りかける。
ミザエルの荒涼とした目がドラゴンに似ていると言ったのに対し、
私を哀れむのはよせ!と返した事からも、
ミザエルの過去に何かがあった事を、カイトは察している様です。
もしも時間が許すなら、ミザエルをもっと知り、理解したかった、のかな・・・。
カイトというキャラは、今でこそ遊戯王シリーズ屈指の強ライバルという評価を得ている。実際、主人公である遊馬・アストラルに一度も負けずに終わっているのは事実だ。
しかしリアルタイムで視聴していた感覚としては、カイトがそこまで圧倒的に強いキャラだという印象はなかった。「トロンにしか負けていない」ことがよく強さの証拠として挙げられるが、これは「結果的に負け星がつかなかっただけ」に思える。
最強キャラだったのは最初期だけで、WDC編では遊馬やシャークとタッグを組むたびに超銀河眼の素材を揃えてもらっていたし、Ⅱに入ってからもvsミザエル1・2戦目やMr.ハートランド戦など、そのまま続行したら負けていそうなデュエルでは中断や引き継ぎが発生する展開が多かった。実際にはものすごく周り(主に遊馬)に助けてもらっていたし、運に恵まれて危機を脱することも多かった。
それでも強キャラとして語り継がれている。この最後のデュエルが強烈に印象に残るのが理由として大きいと思う。
一人で戦っていた頃のカイトは他人を頼ろうとしなかったが、結果的に遊馬にものすごく助けてもらう形になった。このデュエルでのカイトは逆に、遊馬やミザエルに希望を託すことが前提の戦いをしている。そしてだからこそ、たった一人でゼロから希望を紡ぎ出すポテンシャルを最大限に発揮している。
その上で、カイトの過去は単純な過ちとしてしか機能していないわけではない。人を信じて頼ることができなかった過去があるからこそ、同じように人を信じられなかったミザエルの気持ちを汲み、その強さを見つけ出して、心から応援することができる。
ミザエルがデュエル中に取り戻した記憶、彼の過去に何があったのかをカイトは知らない。だが、人を信じて頼ることができないにはできないなりの理由があることは分かる。それでも力になりたい、頼ってほしいという意思を伝えたい。
だから自分自身の弱さを先に告白し、お前に出会えて良かったと直球の好意を伝えた上で、「聞かせてくれないか」と、ほんの少しだけ俺を信じて頼ってくれないかと「お願い」した。
頼る・頼られることへの抵抗感を尊重する意思と、それでもなお頼ってほしい・頼らせてほしいという希望の裏付けを同時に伝える。その具体化の一つが、様々な文脈や感情を乗せた結果として逆にシンプルな言葉で出力された「お願い」なのだろう。
ミザエルはカイトに近づき、力なく震えるカイトの手からヌメロン・ドラゴンのカードを受け取る。
ミザエル・・・行け。
自分の信じる道を。
カイトはミザエルに対し、こうしろという具体的な事は言いませんでした。
人を信じられないミザエルに、似たもの同士であった自分が理解を示す事で、
その頑なな心を溶かした。
後は何も言わずとも、分かってくれるはず。
だから、ヌメロン・ドラゴンのカードを託した・・・。
今のミザエルなら、そのカードを間違った事には使わないと、カイトには分かっているんだろうな・・。
真実を知ってなおネオタキオンを信じ続けるミザエルを「それでいい」と肯定し、似た者同士でありながら自分にないものを持つミザエルへのリスペクトを示し続けながらも、それまで無敵の切り札のように扱われていたネオタキオンを三度に渡り破壊し、カイトはデュエルにしっかりと勝利した。
その結果ミザエルはバリアンの力を失い、タキオンが使えなくなり、今までの寄る辺を全て失って一人になってしまう。だがカイトはそんなミザエルに自らの存在と希望を託すことで、一人になっても歩き続けられるよう背中を押そうとした。
「人を信じて頼ろうとしないままでは限界が来る」ということと、「最後まで諦めずに自分を信じて戦い抜いてほしい」ということ。カイト自身の経験から感じた二つのことを同時に伝えようとした。同族であるミザエルに伝えたかったことは、過去の自分自身に伝えたかったことでもあるのだろう。
吉田伸が構成を担当したアニメ遊戯王は、「一人になってしまった人・一人になってしまう運命にある人に、何を伝えられるか」を一貫したテーマとして持っている。
ZEXALのカイトとミザエルのエピソードは、その到達点の一つとして挙げたかった。
アニメ遊戯王が今後も続くかは分からないが、このテーマが意味を失うことはない。
どんな作品であっても。