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雑記(遊戯王):自分自身のための戦い

 物語の主人公。

 それは物語に登場する様々なキャラと関係を持って解決に導いていくにあたり、しばしば「救済者」的なムーブが求められる(場合がある)ポジションだ。

 酷いことをされても怒りに囚われない、屈しない、仲間を助けるために奔走する、罪を抱えた敵を赦す。

 それらは「自分自身のために戦う」「己の人生の物語を生きる」こととは一見して両立しづらいように見える。

 ……本当にそうだろうか?

 むしろ自らの戦いの根本の動機を自分自身のためと定義しているからこそ取れる視座があるのではないか、個人的な経験の蓄積から得たものこそが共感や牽引力の源になるのではないか?

 遊戯王ZEXAL(1期)の九十九遊馬を例に、彼の「人を助ける」主人公性を裏付ける「原動力」と「資格」が何だったか、助けようとした相手からの拒絶を何によって乗り越えてきたか、熱の入った台詞回しではっきりと定義していたタッグ回(シャークとのタッグ回・カイトとのタッグ回の両方)を取り上げて考えてみる。

 

 引用させていただく。

https://hitotonoya.hatenablog.com/entry/2021/01/23/170240

一方で10話~12話では遊馬と鉄男の友情も掘り下げられています。
遊馬はこの10話で「ナンバーズを使わないで勝つ」と宣言しておきながら、「シャークを救うため」という上っ面の言い訳をしながら、負けることを恐れてナンバーズを使ってしまったうえ敗北します。

この遊馬の嘘に、幼馴染の鉄男は失望させられてしまうし、遊馬は10話の時点でシャークを救うこともできません。

鉄男からの信頼を10話で裏切ってしまった遊馬が、11話12話で本音を曝け出したデュエルをします。その「遊馬の、誰のためでもない、自分のためのデュエル」が真にシャークを救い、デュエルを見ていた鉄男からの信頼を取り戻す、という流れになっています。

http://lipcre.sakura.ne.jp/11/yugiz3.htm

「オレ、行かなきゃ…!」

「ま、待って遊馬!もうやめようよ、シャークに関わるの…どうしてそこまでシャークのために…」

「オレは…シャークのために行くんじゃない、オレ自身のために行くんだ…
 オレは自分に嘘をついた…シャークを助けるためだとか言って、本当は勝ちたかった…!
 ただシャークに勝ちたかったからナンバーズを使ったんだ!
 オレは…オレは嫌なんだよ…!このまま終わっちまうの!!」

 

「お前の居場所はこんなとこじゃねえッ!!」

「なっ…押し付けがましいんだよ!なんでそこまで…」

「仲間だからに決まってんだろ!」

「く…っ…!」

 

「あれが原因で、お前はデュエルの表舞台から永久追放されたんだよなぁ?ハハハハハ!」

「…オレは…負けるのが…恐かった…」

「ぶはははは!優勝候補が負けるのが恐かっただとよぉ!ブザマだな~?ええおい!」

「…」

「まったく情けねえ野郎だぜ!ハハハハハ!ハーッハッハッハッハッ!」

「笑うなァァァァッ!!」

「「「!?」」」

「何がおかしいんだ…!負けるのが恐くて、何がおかしいんだ!!
 オレだって恐かった…!シャークとデュエルした時、負けるって思った瞬間
 恐くなっちまって…だからナンバーズを使っちまった…!
 シャークを助けるためだとか言いながら!負けるのが恐かった!オレは嘘をついていた!
 でもだからこそ思うんだ…もう絶対にデュエルだけには嘘をつきたくないって…!
 シャークだってきっと同じだ!
 だからシャークのデュエルは!本物なんだァッ!!」

「…遊馬…」

「相手がどんな汚い手を使おうが!
 オレ達は正々堂々戦って勝つ!!
 それが…今のオレ達のデュエルなんだ!」

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 3年に渡る番組の最初期のエピソードだが、間違いなくZEXAL全体通してのベストバウトの一角に数えて良いだろう。

 遊馬が折れない主人公でも万能の救済者でもなく折れて立ち上がる主人公であること、だからこそ本気の共感を他人に向けることができるキャラクターであることの証明。

 「俺があいつを助けに行くのはあいつのためじゃなく俺自身の納得のためだ」と口では言いつつ、実際の行動は明らかに「あいつのため」も入っている献身的なもの。にも関わらず己の戦いの動機を「俺自身のため」と定義する姿勢そのものが、恩着せがましさを避けつつ己のコアを見失わない効果をもたらし、拒絶と敗北を突きつけられた上でもう一度向かっていくための原動力になっている。

 それだけではなく、「このデュエルにはシャークとオレの未来がかかってる」の台詞に現れているように、「自分自身のプライドを取り戻すための戦い」を選択したからこそ、助けたい相手(シャーク)にとって単純な救済者ではなく「同じ目線で一緒に戦ってくれる人」になることが結果的に可能になっている。

 負ける恐怖に屈して自分自身の課したルールを破ってしまい、己の弱さをこっぴどく突きつけられる展開。しかしそれがあったからこそ同じように負ける恐怖に屈してしまったシャークの気持ちを理解することができた、熱のこもった共感を口にすることができたという流れ。

 己の弱さを真正面から認めつつ、弱さと戦う意志をこそ原動力にする。それこそが単純な救済者ではない「同じ目線で一緒に戦ってくれる人」になるために必要な過程だった。「己の経験に基づいて弱さを理解・肯定」した上で「弱さに安住したくない意志をこそ汲み取ろうとする」遊馬の姿勢こそが真にシャークに戦う勇気を与えてくれたという筋。

 後の展開でもテーマになる、「カオス(光と闇の両方)を内包した人間の心を肯定する」こととは具体的に何か、の一例を示す展開としても極めて明快なものと言えるだろう。

 

http://morgenstern11.blog.fc2.com/blog-entry-60.html

Ⅳは哄笑を上げますが、カイトくんは無傷のまま。
遊馬くんがとっさに罠カード「攻撃の無敵化」を
発動していたのです。
予想だにしていなかったのか、驚愕するⅣとⅢ。
このカードはバトルと効果による破壊を
無効に出来ました。
Ⅳは忌々しげにエンド宣言します。

「アストラルの指示か?」
遊馬くんに助けられたのが不服なカイトくんが
問いました。
「違う、オレの意志だ!」
遊馬くんは即答します。
お前が敵だって言うなら敵でも構わない。
けどオレはハルトと約束したんだ。
あいつはずっとお前に会いたがっていた。
「だから、必ずお前をハルトの元に連れて行く!」
遊馬くんの真っ直ぐな目をカイトくんは
黙したまま受け止めます。

 

https://slowly47837.hatenadiary.org/entry/20120213/p1

前回同様、自分のLPを犠牲にしてカイトを守る遊馬。

その頃、トロンはハルトの記憶までも奪おうとしていた。

 

IIIのナンバーズ、マシュマックの効果と攻撃で大ダメージの遊馬とカイト。

焦るカイトを気遣う遊馬だが、「お前に俺の苦しみ、憎しみの何が分かる!!」と、

突っぱねられる。そんなカイトに遊馬は・・・・。

 

「・・・ああ、分からねぇ。分からねぇさ!

 お前やハルトの憎しみも悲しみも。

 だけど、俺はお前とデュエルした。

 デュエルを通じて、お前を知っちまったんだ!

 デュエルは新しい仲間を、絆を作ってくれる。

 そして、デュエルってのは!!

 新しい自分に、かっとビングさせてくれる!

 決して恨みや憎しみをぶつける道具じゃねぇ!

 みせてやる!俺のかっとビングを!!」

 

力尽き、立つ事も出来ないカイトに、遊馬が叫ぶ。

「立てよ、立つんだよカイト!」

「ボロボロでもいいよ・・・。

 最後まで諦めるなよ。

 お前が諦めてどうすんだよ!!

 ・・・お前がハルトを守らなくて・・・誰がハルトを守るんだよぉぉぉぉ!!」

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 40話~41話からエピソードとしては連続している、42話~43話にかけてのカイトとのタッグデュエル(カイトの超銀河眼覚醒回)。

 シャークとのタッグでは失敗を一度経てシャークと同じ弱さを共有して初めてシャークの気持ちを理解し本気の共感を口にすることができた。逆に言えば最初から簡単にシャークのことが理解できたわけではない。「お前の気持ちが俺にはわかる」をやるためのハードルは低く見られていない。それはこのカイトとのタッグも同様だ。

 なんだかんだ最初から面倒見の良かった(自らの意志で遊馬の側についたしアーマードエクシーズを託してくれた)シャークに比べ、初期カイトは目的達成が必然的に遊馬との敵対を含むのもあって圧倒的に当たりが強く、カイトとハルトの抱えた孤独や二人だけの事情へ安易に「わかる」と理解を示すことは遊馬にはできない。

 だがそんな自分の限界を真正面から認め、助けたい相手との心の距離を尊重した上でなお寄り添おうとする姿勢と行動を示し続けたこと、それこそが消えない断絶を乗り越えた信頼を最終的に生じさせる効果をもたらしている。

 「お前と敵対したくない」ではなく「敵でも構わない」「けどオレはハルトと約束したんだ」、「お前のことがわかる」ではなく「わからねぇさ」「でもお前のことを知っちまったんだ」。そして「自分がハルトを守る」ではなく「お前がハルトを守らなくて誰がハルトを守るんだよおお!」の一見根性論に見える台詞こそがカイト自身の膝をつけない理由に火をつけ、立ち上がる勇気と他人を頼る勇気をもたらす流れ。

 あくまでも自分自身の意志を強調しながら助ける行動を惜しみなく見せつつ、相手の課題が最終的には相手の意志の発露によってしか解決できないことを見据えている。アプローチの仕方は違えど、単純な救済者ではなく「同じ目線で一緒に戦ってくれる人」になろうとしたのはシャーク回の時と同じ。

 シャークには「押し付けがましいんだよ!」カイトには「お前に俺たちの何がわかる!」と、「助ける」主人公をやるにあたり存在して当然の拒絶や断絶を真っ向から突きつけさせた上で、何がそれを乗り越えて手を繋ぐのを可能にする資格となるか、“自然と”優しさや熱の籠った台詞がどうしたら湧いてくるかをこそ描き出す。それがこれらのタッグ回の本質だと思う。

 

 少なくともZEXAL1期において、九十九遊馬という救済者主人公は、救済者主人公だからこそ「共感の源となりうる自分自身の意志と経験」や「相手との間に存在して当然の心の距離」を重視している。

 これは敵キャラに手を差し伸べていく過程も同じだ。黒幕の一人のトロンとの決戦にあたっては「トロンの息子たちと同じように親に置き去りにされた孤独を知る子ども」の立場からの叫びを口にする。最後に元凶のフェイカーを助ける際にも「あんたのことは憎いさ。けどあんたは一生懸命ハルトを生かそうとした。きっと父ちゃんなら仕方がないって笑う」と、憎いという個人の感情を否定せず前置きした上で、同じように個人の感情に基づいて赦したいという意志を示している。

 

 その一方でZEXAL2期に入ると、守るべきものが拡大していくにつれ遊馬の個人的な動機ベースでは回収しきれないものも増えていき、託された大義と個人的な動機のどちらを取るかが課題として現れる場面も出てきた。最終盤のナッシュ戦の幕引きなどは特にそれを強く感じさせる。

 この論点は2作品後の遊戯王VRAINSにも受け継がれた。

 九十九遊馬と違い陰キャ成分が強く、(ダーク)ヒーローでありつつも救済者主人公の色は薄く、「あくまでも個人的な戦いを選択する意志」「一個人だからこその視座を重視する傾向」をより強く出してきた主人公の藤木遊作。

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 そんな遊作に突きつけられる度重なる人質展開、個人の情とヒーローの役割が衝突する実例の提起。特にそれが凝縮され明確に言語化されているのが、93話「交わした約束」。

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 最初は自分自身に決着をつけるための戦いだったとしても、歩み続けていく内に気付けば自分の道に付いてきてくれた人がいて、結果的に色んな人々の希望を背負った存在になっている。

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 遊作がヒーローになっていった道のりをBGM「自分だけの正義」と共に言語化していくと同時に、「皆の希望として、私情ではなく大義を取ってほしい」という「個人的な約束」が、現実に草薙との対決を強要されて立ちすくむ遊作の背中を最終的に押す展開。

 ではこの後の遊作は個人的な戦いを捨てて皆のヒーローに徹することを決めたのかというと、

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 皆の希望となったことを自覚した上で、それでも結局やはり自らの戦いを「自分自身のため」と定義する。自分のコアを保つことを大事にし続けるのである(ZEXAL2期終盤の遊馬の決断も結局同じ話ではある)。

 VRAINS3年目が2年目までの展開で消化しきれなかったキャラクターの内面の課題(特にソウルバーナー、リボルバー、Aiがそれぞれ抱えた喪失による傷)の決着を軸とする内容なのもあり、VRAINS最終盤はそれまでの遊戯王で中々見られなかったタイプの内向性を帯びた作風となる。

 仲間を伴わず一人だけでAiと最後の決着をつけに赴く遊作、そんな遊作を何も言わずに送り出す仲間たち。あくまでも「個人」にフォーカスし続けたからこそ、遊作が他人との断絶を常に抱えた陰キャ主人公だからこそ、そういった間合いの描写が可能になっている。

 最後のこの結論も、f:id:kumota-hikaru:20230525002232j:image
 「個人」にフォーカスし続ける意志によってこそ到達できたものだと思う。