アニメ遊戯王DM、ドーマ編。
それは……
一時代を築いた例のアレの出身地である。某動画サイト黎明期に遊戯王ブームの火付け役となった例のアレ。
……それはさておき。
初代アニメ遊戯王(※東映版を除く)ことDMで、1年近くに渡り放送されたアニメオリジナルストーリーのドーマ編。
その評価は当時も今も高いとは言えない。というより、当時の不評を今も引きずったまま再評価の機会を与えられずにいるように見える。
その後のアニメ遊戯王を支えることになる吉田伸の代表作の一つであり、後に原作から独立して歩んでいくアニメ遊戯王に与えた影響が非常に大きいにも関わらず。GX3年目も当時の評価は散々だったが割と早期に「暗い遊戯王」の先駆けとしてのポジションを確立したのに対し、ドーマ編は今でもネタ・黒歴史扱いで終わってしまうことが少なくない。
それはDMという作品そのものの位置付けの特殊性によるものも大きいだろう。完全にアニメ遊戯王として原作から独立したGX以降に比べ、DMは原作との比較を逃れえない・原作の影に隠れやすい分かえってスポットを当てられにくい傾向がある。
もちろん、原作ファンからしたら不満が挙がるのは当然とも言える要素を多く含んでいるのは事実だ。あらゆる意味で原作から逸脱した内容。闇遊戯を実力負けさせヘタレてる様子を散々に描く、原作では悪役要素のない竜崎や舞を闇堕ちさせる。「心の闇」をテーマにしていることもあって「キャラの負の面」を描く傾向が強く、それが既存キャラにも容赦なく及び、そのキャラの特に原作には無かった要素から心の闇が出てくる。「原作からのキャラ改変」は事実だし、またそこまで大胆なことをしながら必ずしも全てのキャラを最後まで丁寧に描き切っているとは言えない。賛否両論になるのも当然だ。
だがそれらの点を踏まえてなお、アニメのキャラ付けを原作とは別物と割りきれば今見ても決して質の低い内容ではない。吉田伸の大好きな「心の闇」はドーマ編が初出なことで有名だが、その後擦られすぎた感はあるもののドーマ編単体で見るなら「心の闇」は決して陳腐なワードではない。今見ても十分に見応えがあり、むしろ「心の闇」シリーズの最初の作品にして総合的な完成度はトップなのではないかとすら思う。
例えば「チートオリカ量産」がドーマ編の特徴としてよく槍玉に挙げられるが、これは「アニメオリカの大量投入」という文化そのものがDM放送当時は根付いてなかった、ドーマ編が先駆けだったからこそ当時受け入れられなかったという側面が強そうに思える。確かに(当時の環境での)チートオリカも多いが使い道ゼロの産廃オリカもかなり多く、原作や後のアニメシリーズに比べてドーマ編のオリカが特別チートばかりという印象はあまりない。
チートの印象が強いとすれば後述のオレイカルコスに加え、手札を使いきってはぶっ壊れドローカード(天よりの宝札、運命の宝札、命削りの宝札)で強引に大量補充する展開の多さからだろうか。しかしこれはGX以降の「1ターンが長いデュエル」とはまた違った「テンポよくターンを渡し合う一進一退のデュエル」を支えるものにもなっている。各キャラのエースカードが明確に定まっていないことも手伝い、ドーマ編のデュエル構成には以降のシリーズと趣向の異なる良い意味での展開の読めなさがある。
このように、ドーマ編は「先駆けゆえに評価されにくかった要素」と「後のアニメシリーズには見られないドーマ編独自の個性」がいずれも色濃く出ている。
アメリカを舞台にした圧倒的なスケール感、荒野だったり列車の上だったり飛行機の上だったりで戦う放浪感。それらがエモいBGMや流動的な展開と相まって独特の終末感を出しているのも見逃せない。世界の命運を賭けてデュエルするようになったのがドーマ編からというのは有名だが、ドーマ編のスケール感の作り方・絵作りの上手さは後のシリーズと比較しても光るものがある。
「先駆け性」と「独自の個性」がどちらも強く出ている例の一つに、オレイカルコスの結界も挙げられる。
リアルタイム放送当時の私は小学生だったのだが、オレイカルコスの結界の「発動されて負けたら魂を奪われる」は本気で怖かった。
もともとDM自体が原作からしてダークな要素を持ってたし、ボス戦では闇のゲームも発生してたし、パンドラ戦の足を切断される恐怖やアニオリのバクラvs骨塚のホラー演出も普通に怖かった。だがそれにしても章全体を魂奪われる恐怖が支配しているというのは初めてで、長い長いバトルシティを終え新章に入っていきなりのこれは相当のインパクトだった。と同時に強く引き込まれた。
「新章の敵側が共通装備で使ってくる独自システム」は後のアニメ遊戯王で定番化している。ダークシンクロ、地縛神、機皇帝、RUM、裁きの矢……オレイカルコスはその先駆けなのだが、後のシリーズと比較してもそのストーリー上での存在感は図抜けている。
それは「使用者やモンスターの額に紋章が現れ、フィールド全体が結界に包まれる絵的なわかりやすさ」「一律500アップ・除去不可能というシンプルながら理不尽な強さ」「魂を奪われる恐怖」と、盛りに盛った理不尽さ・恐怖演出が効果的に作用しているからだ。長いバトルシティを終えて様々な因縁に決着がつき、行ける世界が広がった直後に現れる全く未知の理不尽と恐怖。後のシリーズだと地縛神が近い存在感の出し方をしていた。
そしてこのオレイカルコスという未知の恐怖との戦いはそのまま、原作では明確なテーマになってはいなかった「心の闇」という未知の恐怖との戦いとリンクしていた。
メイン3人(遊戯、城之内、海馬)にはそれぞれ章全体を通してのライバルキャラとテーマが与えられ、状況的にも精神的にも苦しい戦いを強いられることになり、
「心の闇」という漠然としたキーワードのもと、心理フェイズに重きを置いた濃密な、そして主人公側も敵側もずっと苦しいデュエルが繰り返される。
海馬と城之内は章の最初から最後まで折れない強さ、しっかり戦いながらも敵のことをよく見ている器の大きさが描かれていた(特に海馬vsアメルダ2戦目はDM全体を通して屈指の出来だ)。だが闇遊戯はvsラフェール1戦目でプライドと勝利に拘るあまり、渡されたオレイカルコスの結界を使ってしまった上に敗北して表遊戯の魂を奪われ、
自らの心の闇を浮き彫りにされる形で散々に醜態を晒し、煽られ、精神的に追い込まれることになる。しかも結構長い間。
冒頭に挙げたバーサーカーソウルのくだりも、
自業自得でラフェールに敗北した末、自分の身代わりになる形で表遊戯の魂が奪われたことによる闇遊戯の不調と焦燥を描くパートの一部というわけである。今だったら闇虐とか言われてそう(?)
闇遊戯を豆腐メンタル扱いするネタはこの一連の流れから生まれたものであり、ドーマ編が叩かれがちな最大の理由もここにある。今の感覚だと豆腐メンタルとは別に思わない(むしろ曇る原因がしっかり描かれてるのにすぐそういうこと言う昔の風潮がどうかと思う)が、それにしても原作でほぼ無敗の主人公に対してあまりにも執拗極まる痛めつけだとは確かに思う。
だが……本当に大事なのはここからだ。
ドーマ編の闇虐(?)は決して虐で終わってはいない。ドーマ編の闇遊戯はラフェールに負けてからの曇り期間ばかりが取り上げられる傾向にあるが、これは「溜め」であって決して単なるキャラsageで終わってはいない。
普通こんなことアニオリでやるかというほど中盤ずっと闇遊戯を追い込み、当然ながら陰鬱な空気がずっと続き、その中で心の闇と向き合わせ、長いトンネルを抜けた先に待っていた。原作とは別ベクトルのダークヒーローとして成長を遂げた主人公の姿が。
それが現れるのは終盤、最終決戦直前のラフェールへのリベンジマッチからだ。2戦目での闇遊戯は敗北の屈辱もモンスターを犠牲にする戦術を煽られたことも引きずっておらず、1戦目とは逆にラフェールがオレイカルコスの結界を使用し、ラフェールの心の闇を掘り下げていく戦いとなる。
前回の戦いで発動できなかった伝説の竜のカード(ティマイオス)を使い、前回の戦いで闇遊戯を倒したガーディアン・エアトスを破り、この時点で前回のリベンジには成功した……と思ったところでラフェールの心の闇の具現化であるガーディアン・デスサイスが現れ、伝説の竜をあっさり倒される。過酷な過去から生まれた「モンスターを墓地に置かない信念」を曲げてしまったラフェールを前に、心理フェイズ的にもデュエルの状況的にも逆転できるカードはもはや無いように見えたが、そんな中でも耐え続け、
「何がお前を支えている?」という、割とよくある問いに超カッコいい答えを返す。
「見えない答えを探す心と心の戦い」をこれほどまでにカッコよく表現したセリフを私は見たことがない。
そして……
闇遊戯の言葉はラフェールには響いていないように見える。だが……
後の不動遊星にも通ずる、鈴木やすゆき遊戯王主人公の真髄が出ている。
「俺が救ってやる」を体現したかのような、ある意味非常に傲慢な物言い。しかしカッコよさがウザさを大きく上回ってしまうのは「相手の心の答えを探そうとする熱量」「相手が元々持っている絆を大切に扱う」「相手が自力で解決できない痛みを引き受ける」姿勢の、嘘じゃないと感じさせるパワーが凄いからだ。遊戯側ラストターンの「お前ができないのならオレが会わせてやる!」のセリフにそれが端的に現れている。
そしてこのラフェール2戦目のラストターン、最初のグリモ戦で流れたっきりずっと流れていなかった「熱き決闘者たち」、闇遊戯のテーマBGMにしてDM自体のメインテーマがとても久しぶりに流れる。ドーマ編は闇遊戯が負けて凹んでいる期間が長かったため、DMの代表曲である熱き決闘者たちが中盤ずっと流れていなかったのだ。それがここにきてようやく流れる効果は非常に大きい。闇遊戯が復活した感、未知の恐怖を乗り越えた感を非常に強く印象付ける。
しかし最終決戦、ラスボスであるダーツとの2vs1デュエル……
これまでに戦ってきた敵とはスケールがまるで異なるダーツの底なしのチートと邪悪を前に、闇遊戯は何週もかけてジワジワと追い詰められ全てを失っていく。
海馬と力を合わせた最強カードの究極竜騎士はあっさりいなされ、仲間たちの魂が封印されたミラーナイトとの戦いを強いられ、心の闇を乗り越えオレイカルコスの呪縛から逃れたはずのラフェールが再び心の闇に囚われて魂を奪われ、今回は最初からしっかり協力し合っていた海馬も脱落し、全ての仲間が意識を失い、ライフ2万・シュノロス攻撃力2万・オレイカルコスの三重結界を携えたダーツを前に闇遊戯は文字通りたった一人になってしまう。
とことんまで追い詰められたところにアイデンティティクライシスを煽る心理フェイズを仕掛けられ、自分にはもう何も残っていないと、再び心折れそうになるが……
この「何もかも失った自分の底にそれでも残るものは何か」という問いの立て方、非常に抽象的だが一つの本質を突いている「記憶の器」という答え。鈴木やすゆきとはまた異なる吉田伸の内向的な作家性をかなり感じる。色んな意味でVRAINS最終回の遊作とAiの抽象的なやり取りを思い出すところがある。
どう考えてもアニオリでやっていい内容を逸脱している。色んな意味で凄い。
ここからはチートvsチートの戦いとなり、最終的には互いにライフ0の状態でデュエルを続行する異次元の領域に突入する。今までチートでありつつも順序立てた戦術で攻めてきたダーツも小学生が考えたような攻撃力∞の蛇神ゲーを切り札として出し、今まで基本的にはOCGのルールに従ってデュエルしてきた闇遊戯も対抗して王国編ばりの俺ルールをフル稼働。その間ガンガンに流れる熱き決闘者たちが色んな意味で「闇遊戯が帰ってきた」感を印象付け、長いデュエルに漸く決着の時が訪れる。
ところがここからがダーツの凄いところであり、デュエルに負けてもオレイカルコスの神を召喚して遊戯たちとの総力戦リアルファイトに入る。二段構え三段構えの切り札を備えた巨大スケールのラスボスは後のアニメシリーズでも定番となっているが、デュエルに決着がついてもリアルファイトで2週も3週も食い下がるのは後に例がない。
死闘の末にオレイカルコスの神も撃退し、皆の魂も戻ってきて今度こそ本当に決着がついたと思ったその時、まだ生きてたダーツは地球の心の闇なる存在を携えて闇遊戯に最後の一騎討ちを挑んでくる。そろそろ製作者の正気を疑い始め、もう終わりでよくないか……と思いながら入るドーマ編最終回。
先に結論を言うとドーマ編最終回は半分くらい回想が占めるほぼ総集編であり、残すは闇遊戯の最後の戦いだけで物語はほぼ終わっている。では、見所がないのかというと……
開幕即、BGM熱き決闘者たち。
ドーマ編最終回、この闇遊戯のアンサーのなんと美しいことだろうか。
何が素晴らしいって、
①過ちを犯した時(相棒の制止を振り切ってオレイカルコスの結界を使ってしまった時)と同じセリフをあえて使うことで、「あの時とは違う」を逆に強調する理想的な「再演」。
②これまであらゆる意味で原作から逸脱したラインを歩んできたのが、ここにきて原作の最終章でもある「いつか必ず来る相棒との別れ」に帰着するテーマの合流の上手さ。
③DMという作品特有の文脈を置いておいても、単純に「いつか来る別れ」テーマへのアンサーとして極めて美しい。「いつか必ず別れは来て、独りで戦わなきゃいけなくなる」という切なさを認めつつも、「独りで戦うのは自分自身の正義と信念を貫くためだ」とそのことに前向きな意味を持たせ、自ら独りの戦いに飛び込んでいく姿を描いている。
ここからはドーマ編自体の話からは少し外れるが、この「いつか来る別れ」「最後は一人の戦い」テーマは、原作遊戯王のそれとはまた別に吉田伸の作家性として後のアニメ作品でも何度も扱われている。
ZEXAL終盤のカイトの「俺で慣れておけ」やアストラルとの別れをめぐる物語。「心の闇」のワードを使わなくなっても「心の闇」シリーズで扱っていたテーマは消えていない。
その中でも、現時点で吉田遊戯王の最終作となっているVRAINS3年目の文脈はドーマ編のそれと相互補完の関係にあると思う。
ドーマ編は道中で色濃い絶望を含みながらも前向きに終わっていたが、「心の闇」や「最後は一人」を突き詰めていくと、結局「どうやっても無理な者もいる」に行き着く。
VRAINS3年目は繋がりの喪失をテーマにしていた。ソウルバーナーを自力で立ち上がらせるためのデュエルをリボルバーが成功させた一方、リボルバーのやり方でそれを見ていたAiを勇気づけることはできず、主人公である遊作も相棒だったAiの生きる気力を復活させることができぬまま終わる。
時代が進み、個人個人の心の闇をより細かく見ていくようになるにつれ、このような描き方が色んな作品で目立ってくるのは当然のことだ。どうやっても救えない者だってこの世にはいる。万人を「救う」ことができる一つのやり方などというものはこの世にはない。個人の苦しみを尊重するとはそれを認めることだ。
だが……ある人物が自らの心の闇をどうやっても克服できないか、どうやっても自力で立ち上がる・他者が手を貸して立ち上がらせることができないかどうか、それは最後まで試してみなきゃわからない。VRAINSでもそのように描かれていて、メイン4人の抱えた課題も最後までどちらに転ぶかわからなかった。
だから「どうやっても無理な者もいる」という事実を認めた上でなお、ドーマ編の闇遊戯がたどり着いた「光の器」という一つの答え、
そして「見えない答えがそこにあると信じて探し続ける困難さ」そのものを自らの支えとした姿勢は、今でも輝きを失っていないのだ。