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雑記(マギレコ):2023.4~5 ピュエラヒストリア ヴィーク編・チベット編

 マギレコ。

 正直2部後半以降、特に2部11章からピュエラ・ヒストリア初期にかけてはモチベがただ下がりしていた。メインストーリーは勿論のこと、メイン外のイベストさえも、作品全体を取り巻く「“救ってあげる”の絶対化への自省の無さ」や「断絶を取り上げる意義の軽視」に引っ張られているように見えた。

 ……のだが、ピュエラ・ヒストリア3回目のヴィークのワルキューレ編を境に流れが変わってきた。続くピュエラ・ヒストリア4回目のチベットラクシャーシー編、まさら&こころ花嫁ver関連(イベスト「あしたの幸せに花束を」、まさここMSS)と、3回連続でかなり良い感触が来ている。これが傾向の変化の兆しであるならば本当に嬉しいし、そうでなくてもこの感触を手放したくないので、それぞれのシナリオについて感じたことを箇条書きでまとめていきたい。

 まずこの記事においてはピュエラ・ヒストリア3回目と4回目(以下ではそれぞれ北欧・チベットと略したり略さなかったりする)について書き、次の記事でまさここ関連及びその少し前のバトルミュージアムれん編についてまとめる。その後も良い感触が来たらその都度感想を記録しておこうと思う。

 

①ヴィークのワルキューレ

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・「売れないバンドマンの語る夢みたいな話に本気で入れ込んでしまい、腎臓売って得た高いギターを唐突に押し付けてきて、勝手に夢の実現へのロードマップを作り説教しながらケツを引っ叩いてくる面倒くさ彼女(大意)」という評を見たことがある。

 概ねその通りだと思う。だからこそ歴史ものでありつつ本質的には時代を問わない普遍性のある話になっている(もちろん戦争や奴隷制度が当たり前の時代を扱うことで出口のない悲惨な状況に説得力を与える意味はちゃんとある)。

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 この後のチベット編もそうだが、「ここではないどこかへ行きたい」「こんな出口のないところに居たくない」というキャラクターの渇望がシナリオの底力になっている。

・オルガとガンヒルトはクリア報酬メモリアでそれぞれ「夢を見る姉」「夢を追う妹」と評されているが、本質的には二人とも「夢を追いたいが、一人だけで夢に本気になれるほどの強さはない」同じタイプなのではないかと思う。途中からガンヒルトはオルガの夢を叶えると称して自分のやりたいことをやっていたわけだが、単独で自分の夢を追う強さを最初から持っていたならオルガの夢をわざわざ立てて副リーダーをやりたがる必要はなかった。

 ただ、それならばオルガ自身の夢を叶える能力を伸ばそうとするように動くべきだった……とは思いつつも、f:id:kumota-hikaru:20230629234104j:image
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 ガンヒルトの言っている通りで、この時代にオルガの優しさに沿った形で(誰かを踏みつけにせずに)奴隷から成り上がったり金持ちになったりするなど凡そ不可能ではないか? とも思う。最終的に二人ともそれぞれに希望と後悔を抱えた幕引きとなるし、どう行動するのが正しかったのか誰からも明示はされない。見ていて息の詰まる出口のない時代の空気が伝わってくるし、この点に歴史を扱った意味があると思う(これを現代舞台でやろうとするとそれなりの工夫が必要になってくる)。

・派遣されたミスドの倫理観が一貫してちゃんとしていたのも見ていて安心感があった。
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 現代さえも消滅させかねない歴史改変を避けるべきというのも当然あるが(ヒストリア直前の5周年や12章末でもわざわざ大きくアピールしていた小石先輩の存在を考えたらなおのことだ)、それ以前にそもそも歴史を安易に「救済」の対象にすべきではない。ここにちゃんと触れているだけで一定の信頼がおける。f:id:kumota-hikaru:20230630052900j:image
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 干渉したい気持ちを抑えつつ努めて冷静になろうとする、二人の物語の主軸や歴史の大きな流れに影響を及ばさない範囲で最終的にはそっと手を貸す。

 「単に歴史へのリスペクトがない万能の救済者気分を拗らせてるだけ」にも、「単に情がないだけ」にもならないよう、最初から最後まで注意深く綱渡りをしている印象だった。

・北欧とチベット後半の展開は全体的に似た点が多く、それぞれまどマギ最終回のまどかの決断を別側面から切り取った着地点に向かう物語になっている。チベット後半が最終回まどかの「世界から顧みられる機会を自ら手放した自己犠牲救済者」の側面に焦点を当てたものだとすれば、北欧は「やりたいことに悩んできたのが旅の果てに自らの願いを見つけた少女」の側面を、まどマギ原作とは違う形で描き出そうとしたものだと思う。

 

チベットラクシャーシー編f:id:kumota-hikaru:20230630015242j:image
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中盤のここからの……

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 ラストのこれさぁ……f:id:kumota-hikaru:20230630015600j:image
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 潤みつの「虹のふもと」の話を思い出すよね……

 というか北欧も含めてずっと虹のふもと(夢の果て)を追い求める話してるよね……ヴァルハラを目指すのもシャンバラを目指すのもそういうことだから……最初に思い描いていた夢そのものは叶わなくても、何かを目指し続けているうちに最初に思い描いていたものとは異なる到達点を得ている……

・ぶっちゃけた話、北欧と違いイベスト後半以外で出てくる要素に関しては妙に方向性がとっ散らかっていてあんまり評価できない。

 ヘルカとドルマの二人にはっきり軸を絞っているイベ後半と比較すると、イベ前半は話の構成要素がとっ散らかっているし、細かい引っ掛かりポイントがだいぶ多いし(モンゴル軍に喧嘩を売ったとされるラクシャーシーの具体が一切出てこない・ラクシャーシーなしの少女僧でモンゴル軍に対抗できるとは思えない・ヘルカの諦念要素がラビと重ねるためだけに取ってつけられたノイズにしか見えない等)、何より小学生を甘く見てるタイプの小学生向け学習漫画みたいなモンゴル軍の描き方がかなり厳しい(2部の嫌なところがモロに出ている)。

 ただこれらの気になる点はイベ後半になると一転してほとんど見られなくなっており、時系列的にも前半と全く違う話になっている。何より後半だけでもお釣りがくるくらいには後半の怒濤のごとき引き込み力と単体で完結した文脈作りの手腕が凄い。

・このさぁ……f:id:kumota-hikaru:20230630034445j:image
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 自らの戦う理由の定義、個人的な動機と大義の両立、自己犠牲を止めようとしてくれたヒロインと最後に交わす言葉……

 北欧の項でも述べたが、最終回まどかの「世界から顧みられる機会を自ら手放した自己犠牲救済者」の側面を、単なるまどかなぞりではない(神になろうとするのではなくその真逆を行く)方法で鮮やかに描き出している。

・そしてそれだけではなく、f:id:kumota-hikaru:20230630163858j:image
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 出口のない世界の苛烈さとそれゆえに救いにすがってしまうしかない心理の描写、北欧と同様の「ここではないどこかへ行きたい」「こんな出口のないところに居たくない」の情念がシナリオ全体の底力になる構造に加え、
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 そんな情念が生み出すもの(出口のない世界から逃れようとするが故に、理想の投影に陥ってしまう・救いや希望に“すがってしまう”心理)に対するセルフ懐疑もまた見えてくる。北欧もそうだがチベット後半は「希望」を一概に肯定されるべきものとも否定されるべきものとも描いていない。理想の投影や依存の源にもなりうる「希望」の負の面と、「希望」がなければ生きていけない世界、そういう難しさを知った上でなお夢の果てに手を伸ばそうとする人間の意志。これら三つの要素の全てに重点を置いている。

 出口のない世界、ここではないどこかへ行きたいという情念、そこから必然的に生まれる「希望」への渇望に対する懐疑、それらを踏まえた上でなお夢の果てを目指し続ける意志。これらの要素全てが常に意識されている物語。こういうイベストは以前にもあった(2020クリスマスのAngels on the Roadなど。「神」「希望」に対する懐疑、まどマギへの微かなアンチ的視線を含んでいるにも関わらず、「その世界でそれまでに存在しなかった角度からのシステムへの叛逆」という側面においてまどマギ最終回の精神を見事に継いでいる・単なるアルまどなぞりではない形でまどマギ最終回の本質を顕現させようとしている点もよく似ている。というかあれもそのものズバリ「世界の果て」を目指す話だった)。

 今後もそういうところを“こそ”伸ばしていって欲しい。