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チーム・サティスファクションは本当にネタなのか?~FC編からダグナー編までの遊戯王5D'sを振り返る~


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 チーム・サティスファクション。

 2008年~2011年に放送され、今でも根強い支持を誇るアニメ『遊戯王5D's』の、言わずと知れた屈指のネタ要素。

 その人気は令和の今となっても衰えを見せていない。最近ではOCG最新パックのセイヴァー新規に合わせた54~55話(vs鬼柳2戦目)の無料配信、現行作品SEVENSの新OPにサティスファクションの語があったことからトレンド入りしていたのが記憶に新しい。

 リアルタイム放送時もチームサティスファクション初登場時(32~35話、鬼柳との初戦での回想において)はその絶大なインパクトからネットが大盛り上がりしてた記憶があるし、あの辺りから本格的に5D'sが盛り上がり始めた実感が確かにある。ダークシグナー編終了後はネットでのウケの良さに公式も味をしめた節があり、クラッシュタウン編ではネタに乗っかってる感がかなりあったし、その扱いが今でも続いているような気もする。

 

 だが少し待ってほしい。

 チームサティスファクション、及びそれを象徴する鬼柳京介というキャラは、果たして初登場時のダークシグナー編当時、そこまでネタ一辺倒の扱いをされるような描かれ方だったのだろうか。

 これは以前から薄々感じていて、この前の無料配信で見返して改めて思ったことだ。別にネタ要素を否定するわけではない。天然のオモシロ台詞回しやオモシロ絵面、声優の熱演がすごい頻度で挟まってくるのは事実だ。

 しかしそれと同時に、鬼柳のエピソードはフォーチュンカップ編からダークシグナー編にかけての前期5D'sの世界観やテーマを象徴する、極めて陰鬱でシリアスな話でもある。そしてこれを語るには、前期5D'sの作風や主人公である不動遊星のあり方がいかなる文脈に基づいていたかから紐解いていかねばならない。

 この記事ではFC編からダグナー編にかけての前期5D'sにおける遊星のあり方、全体的な作風やテーマの概観を改めて行い、その中でチーム・サティスファクションについても語っていきたい。

 

フォーチュンカップ編(1話~26話)における不動遊星の主人公性

 

 閉塞感。

 5D'sの初期2クール、フォーチュンカップ編を一言で表すとしたらこの言葉だろう。

 今でこそ5D'sはアニメ遊戯王屈指の人気作だが、放送開始当初はそれほどの勢いがあるとは言えなかった。今でこそぶっ飛んだ1話として受容されているが、当時は「なんでバイクに乗ってデュエル?」「リリース(笑)」「アドバンス召喚(笑)」。

 そして当時も今も、フォーチュンカップ編の評価はダークシグナー編以降に比べて高いとは言えない。それは主人公である遊星のキャラが定まりきっていなかったことも手伝い、全体的な「華」のなさ、とっつきにくさが強かったからだ。

 遊戯王と言えば人死にや鬱で今では有名だが、5D's初期2クールは構成を担当していた冨岡淳広の作家性も手伝い、差別や地域格差を軸に据えた「社会全体を敵に回している感」が強く、他のシリーズと異質な閉塞感を醸し出している。被差別地域であるサテライト出身の遊星は会う人会う人に最初は舐められ、巨大な権力を持ったセキュリティの掌の上から簡単に脱することはできない。

 メインキャラは中々揃わず縦軸もよくわからず、おっさんばかり画面に映る暗くて地味な話が続く。マーカーを顔に刻印されてデッキを奪われたり、故郷に置いてきた仲間たちを人質に取られたりと試練ばかり。物語開始当初の遊星はスターダストを奪われており他に強いカードもあまり使っておらず、後がない崖っぷちの状況での孤独な戦いの連続。当時は「前作GXに比べ全てを吹っ飛ばす超展開が足りない」とまで言われていた。

 

 しかし、だからこそ。閉塞感過剰で出口のない世界観だからこそ、恵まれないスタートラインからたった一人で状況を一つ一つ覆していき、出会った人間を感化していく遊星の主人公パワーが半端ない。

 当初のいわゆる無口遊星はそれほどキャラが定まっていたとは言えず、掴み所のない印象も強かった。だが監獄編での10話(vs鷹栖所長)における一幕は、あまり話題にされないが5D's全編を通してトップレベルなのではないかというくらいにイケメンパワーが凄い。一緒に脱獄しようと持ちかけてきた青山に「仲間を置き去りにしたその先に本当の自由などない」と言って冷たく断ったにも関わらず、所長とのデュエル中に青山が単独で脱獄したのを知らされての心中が「逃げ切れ。そのくらいの時間は俺が稼いでやる」。この時点でちょっと普通ではない。

 そして明確な転機は11話~12話(vs牛尾3戦目・雑賀回)だろう。遊星がはじめて「絆」のキーワードを語った回であり、未収録BGM・通称「絆のテーマ」がはじめて流れた回だ。この回でダークシグナー編までの遊星の方向性、ひいては作品全体のテーマが決定付けられたと言っていい。

http://nitijonosyo.blog60.fc2.com/blog-entry-1003.html

「確かに、仲間という言葉はまやかしかもしれない。

 だが、絆が残っていれば、それは確かなものとなる。

 だから俺は、その絆を取り戻しに来た」

「……くだらないなどと言うな。

 仲間との絆。あんただって大事に持ってるじゃないか。あのカードを」

https://netkatu.com/post-446

一度はジャックにより裏切られた。
しかし遊星は一度の裏切りくらいでジャックとの繋がりを断たなかった。

確かな絆の存在を信じ、ジャックを追いかけてきた遊星。

そんな遊星の思いが周りの人達にも伝染していくから本当にカッコイイ主人公である。

そのためだけにサテライトから出てきたからね…

 

 ここにこそ初期遊星の本質が詰まっていると言っていいだろう。

 初期遊星の戦いは基本的に孤独だ。ジャックには裏切られていて、ラリー達はサテライトに置いてきている。本来の仲間たちは遊星の隣にはいない。

 にも関わらず遊星が「仲間との絆」を見据えて迷わず進み続けているのは、遊星にとっての「絆」が「裏切られても離れ離れになっても、それでも消えないもの」だったからだ。ダークシグナー編までの(そして最終回での)5D'sの「絆」は「必ずしも今隣にいない者との絆」の意味合いが強く、だからこそ独特の強度を持っている。

 

「そうだ、あんたの相棒は、あんたのことを許している。
  いや、そんなこと、考えたこともなかったろう。
  彼の考えはたった1つ。
  あんたとの絆を、守りたかった。
  あんたとの絆を、断ち切りたくないから、
  あんたとの絆を、大切にしたいから……。
  絆がある以上、あんたらはずっと仲間なんだ。
  俺にも、仲間がいるように。
  だから俺は、絆のために闘う!!」

 

 この回で遊星が雑賀に語った内容は直接ユージ本人に確認を取ったわけではない遊星の想像と言ってしまえばそれまでであり、細かく見ていけば突っ込み所の存在しないものでもない。

 だが私はリアタイ男子中高生当時、心の半分では「1クール目も終わろうとしているのにヒロインすら出さずよく分からないおっさんの掘り下げやってるこのアニメ何なんだ……」の気持ち、心のもう半分では「でも今回の遊星はいつもとオーラが違うな……」の気持ちだったし、その後もずっと印象に残っていた。

 雑賀は裏切られて傷ついているのではなく裏切って傷ついている側であり、かつ最初から遊星になんだかんだ協力的で、彼の苦悩は遊星の目の前に差し迫った危機(牛尾)とは無関係であり、解決しなければ前に進めないようなものではなかった。にも関わらず自らの信念で真っ直ぐ踏み込んでいき、具体性のある例示を通して一緒に解決しようとしてくれる遊星の姿、ターボ・シンクロンの「自分より強い敵に向かっていき、傷つきながら仲間を呼び出す」効果に象徴されるそのあり方に、一種の「真摯さ」を感じたからだ。「真摯さ」というものは「主張の内容がレスバ的に正しいかどうか」とはまた別の軸として存在するし、最終的には真摯な方がレスバも強い(見えているものがより多いからだ)。

 この「すれ違おうが拒絶されようが俺が仲間だと思ったらお前は仲間なんだ」をとことん貫くパワー、「力になりたい相手の内面に踏み込み、相手が最初から持っているものを指摘する」傾向が初期遊星の牽引力の源になっている。同じ鈴木やすゆき脚本であり、フォーチュンカップ編のもう一つの白眉でもある23~24話(vsアキ1戦目)も同様だ。

http://takaba1192.livedoor.blog/archives/2684202.html

「この痣は確実に俺たちを繋いでいる。奴らはそれに気づき利用しようとしているのか。
  十六夜を取り巻くあの連中も結局はシグナーとしての彼女を…。
  俺たちは利用されてはいけない」

「そのためにも彼女の閉ざされた心をこじ開け本当の十六夜に会わなければ…。
  全力でいくしかない。俺の全存在をかけて十六夜と向き合わなければ…」

「そして この戦いの果てに お前がいる…」

 決戦前の目標設定の時点でオーラが違う。同じシグナーとしてのジャックやアキとの繋がり、ゴドウィンやディヴァインといった汚い大人達に掌の上で踊らされている現実を知った上で、「利用されてはいけない」と大きな目標を打ち立てつつ、そのためにアキと全力で心理フェイズをやることを決意し、その先にはずっと望んでいたジャックとの再戦を見据えている。

「考えろ!お前自身が!」
「逃げるな十六夜!」
「その喜びを否定するお前がいる。その思いがある限りやりなおせる!
 お前自身を救い出す事ができる!」

 この微妙に精神攻撃っぽい心理フェイズ、そして強引に踏み込みつつも相手が自力で解決できない痛みは自分が一身に引き受ける(暴れるアキとブラックローズから観客を守って自分とスターダストだけが傷つき続ける)姿が、いかにも鈴木やすゆきの描く遊戯王主人公らしい。

 アキは同情できる過去こそあるものの今は破壊を楽しむ心があるという前置きがあり、そこからの「だがお前にはその悦びを否定する気持ちがある、だから自分自身を救い出せる」という展開が遊星独特だ。仲間を裏切った側である雑賀やジャックもそうだが、遊星が絆を感じたり助けようとしていた相手はどいつもこいつも何かしら否定のしようがない後ろめたい部分を抱えている。普通なら自業自得で切り捨てられても仕方ないような行動のキャラばかりだ。だからこそ、それを認めた上でなお見据えた絆がブレず、見えるけど見えない道を語る遊星の「普通じゃなさ」が際立っている。想定外の角度から来る優しさや強さがいかに心に染みるか、切なさと相互に引き立て合うか、だ。

 

 上記の雑賀回とアキ回でダークシグナー編まで続く初期遊星の方向性は完成されたと言ってよく、改めてアニメ遊戯王のテーマ面に占める鈴木やすゆきの貢献度の凄まじさを感じる(DMドーマ編の海馬とアメルダ、闇遊戯とラフェールの決着をキレッキレの台詞回しと圧倒的な熱量で描き切ったのも彼だ)。

 そして、前置きが本体レベルで長くなったが、ダークシグナー編、本題のチーム・サティスファクションの話に移る。

 

ダークシグナー編(27話~64話)と鬼柳京介の物語の暗さ

 ダークシグナー編前半はリアタイ男子中高生当時、とても楽しく見ていた記憶がある。

 「閉塞を抜けて世界が広がったワクワク感」が強かったからだ。フォーチュンカップ編の「華のなさ」はダークシグナー編に入って劇的に改善される。遊星がジャックに勝ってニューキングになってしまいシティの既存の体制を打ち倒したことで、これ以後遊星たちがサテライト出身の出自に悩まされることはかなり減る。

 遊星テーマをはじめとする新BGM、これまで全く見たことのないダークシンクロ、続々と出てくる新キャラ、それまでの物語の枠を外れて流動化していく状況。とにかく今までの世界観が差別的・抑圧的な息苦しさに満ちた閉塞的なものだったため、謎の敵ダークシグナーの引き起こす混乱はむしろ痛快にすら感じた。全体的に絵面も派手になり、ジャックも元キングに落ちてどうなることかと思いきや、新キャラのカーリーとの予想外との絡みをフックにむしろここからが本番と言わんばかりの反省と再起を果たしていく。

 そんな中で登場したのが鬼柳京介だった。クールキャラの予想に反して笑い方の楽しそさと声優の怪演が凄い中、遊星とダークシグナー鬼柳のデュエルの中でチーム・サティスファクションの過去開示が始まるが……f:id:kumota-hikaru:20210716092529j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092548j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092607j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092626j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092642j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092659j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092717j:image

 ギャグっぽい印象に反し、チーム・サティスファクションの結成経緯はフォーチュンカップ編から続く「差別的・抑圧的な社会」テーマを直球で取り上げた重いものだ。

 どうして「満足」をキーワードにしているかって、「狭くて貧しい被差別地域から出られない若者の閉塞感」が遊星たちの共通のバックボーンにあり、だから「ここで満足するしかない」、という話なのは明らかだ。どうやったってサテライトから逃げることはできない。田舎や離島の閉塞感、黒人ゲットー、現実に例えるならそういう系のテーマだ。

 放送当時はそれらがあまり人口に膾炙していなかったせいかもしれないが、そういう文脈が見えてくると一気にしんどい話に感じられてくる。絵面はオモシロだしやってることはヒャッハーだが、だからこそ「ここで満足する“しかない”」切なさが浮かび上がってくるし、物語的にも後に実際そうなる。f:id:kumota-hikaru:20210716095504j:image
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 殺し合う境遇になってもかつて仲間と呼び合った鬼柳を諦められない遊星は、フォーチュンカップ編でジャックとの絆を取り戻すために戦っていた時と同じであり、雑賀回で語った「絆」観がここでも通低している。それはそれとして絵面のオモシロさも凄い。

 しかし遊星は鬼柳の手で初召喚となった地縛神に事実上の敗北を喫する。コカパク・アプはガチャピンとネタにされるが、見た目的にいまいち普通のモンスターとの違いがわからなかったダークシンクロからの、超巨大で異形感たっぷりで効果もぶっ飛んだ地縛神のインパクトは相当なものだった。ここから更にアルカディアムーブメント編、カーリーのダークシグナー化、2体の地縛神登場と続く怒濤の展開の引き込み力も凄まじい。f:id:kumota-hikaru:20210716114843j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114854j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114908j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114920j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114932j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114944j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114956j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716115012j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716115032j:image

 カーリーはダークシグナー化、ディヴァインが退場してアキが一人に、今までずっとブレることなく進んできた遊星も本編中初敗北で自信喪失……と、地縛神に圧倒され状況が目まぐるしく変化する混迷と絶望感からの、ダークシグナー編前半の山場でありアキを正式に仲間に入れる40~41話(遊星vsアキ2戦目)。

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 この回の主役は当然遊星とアキなのだが、個人的にはデュエルをしていないジャックの潤滑油ムーブが素晴らしい。アキを救出したのはジャックだが彼にアキと通じ合う力はなく、しかし遊星のことはもう認めていて遊星ならアキを救えると見込み、鬼柳に負けて挫けつつある遊星の背中を押して奮起させるためにもアキと引き合わせ、自分は双子の保護者的ポジションで遊星とアキの決着を見守る。一見目立たない役割に見えるが、バラバラになりつつあったシグナーたちを繋げたのは間違いなくジャックだ。f:id:kumota-hikaru:20210716121015j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716121033j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716121047j:image
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 鬼柳を助けられなかった経験を背景に、しかし単純な無力さに終わらないこの台詞にも遊星の良さ、純粋な真摯さがよく出ている。人を救う力を現実に持っている遊星だからこそ、人を“救う”ことが簡単にできないこと、自分にできないことがあることをよく知っている。だから「そうだオレには力などない!(即答)」なのだ。

 こう言いつつ1戦目と同様に遊星は必死にアキと向かい合って周りを守りながら自分だけが傷つき、その姿が観戦していたアキの父親の心を動かして解決を促している。地縛神に敗北したことに凹みつつ、この時点で地縛神の対策となるカード(魔法・罠の効果を受けないアニメ効果地縛神に触らず戦闘ダメージを0にする系)をしっかりデッキに投入していて、次の地縛神との対決で早速使うのも話が早くて良い。f:id:kumota-hikaru:20210716123853j:image
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 この「前向き過ぎず、しかし無力でも後ろ向きでもない」遊星の立ち直り方、静かな決意と切なさが共存した表情と台詞の雰囲気が前期5D'sらしい。

 そして先にも少し述べたが、この辺りのジャックは遊星の影響を受けながらも決して取り込まれきっておらず適度な距離感を保っている。そしてだからこそ生来の奔放さを強さに変えて遊星にはない視点を持てる、遊星が停滞している時に背中を押せるという描き方が素晴らしい。

 ジャックは遊星の言う絆が自分の支えになっていたことを理解したが、その上であくまで己が道を行く。だからこそ取り巻きに甘んじず遊星と補い合うことができる、そういう仲間のあり方だ。これは最終回でも同じ。
 フライング気味になるが、f:id:kumota-hikaru:20210716131437j:image
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 58~59話(ジャックvsカーリー)の決着時のこの台詞にそれがよく出ている。遊星たちを思いやることのなかった過去の自分を同話でジャックは否定しており、それ以外でも「今の俺はキングではない」を頻繁に口にして過去の自分との決別を明確にしているが、しかし決して自分自身の幸せを追求することを否定したわけではない。
 「孤高の光」のサブタイトル、そしてダークシグナー編後半の決戦編では他全員のデュエルで遊星が観戦に現れて何かしら関わっているのに対し、ジャックのみ遊星が干渉することなくギャラリーのいない二人だけの決着をつけていることからも、「ジャックはあくまで独自の道を行く」という製作側の意図が見て取れる。

 他の遊戯王キャラだと、ジャックとは一見真逆のキャラ性に見えるが遊作が近いテーマを持っているように感じる。ギャラリーのいない二人だけの決着をAiとつけたところも、「それでもあくまで自分の道を行く」という性質も(こういうテーマをやりやすいポジションはどこかと考えると、やはり遊作は主人公より二番手向きのキャラだったようにも思う)。

 少々脱線しつつあるのでこのくらいにして、ダークシグナー編の続き、遊星vsルドガー1戦目の次から各キャラの因縁を一人ずつ消化していく決戦編に入るのだが……

 正直なところ、ダークシグナー編は前半(遊星vsアキ2戦目、もしくは遊星vsルドガー1戦目まで)はトップクラスに楽しかったのだが、後半の決戦編は前半に比べて全体的に失速感が否めない。初っ端の龍亜龍可vsディマクが4週もかけて虚無気味の内容、その次のクロウvsボマーも悪くはないがそれほどでもなく、そもそもこの幹部連戦形式のテンポが悪い。各デュエルのクオリティや解決ロジックの説得力も全体的にムラがある。

 なのだが、この記事のタイトルは仮にもチーム・サティスファクション。放送当時も楽しみにしてたし、無料配信でも改めて見所の多さを感じた54~55話(遊星vs鬼柳2戦目)。ここで1戦目では明かされなかったサテライト制覇後のチーム・サティスファクションの様子が過去回想される。f:id:kumota-hikaru:20210716140451j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716140511j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716140532j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716140551j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716140604j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716140744j:image
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 この時点で相当にツラい。

 サテライトのデュエルギャングの頂点に立ったところでサテライトから出られない現実が変わるわけではなく、根本的な不満や閉塞感は解消できない。最初から分かっていたことだ。それでも「ここで満足する“しかない”」ため、祭りが終わったことを認められず手段が目的と化し過激化していく。f:id:kumota-hikaru:20210716142506j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716142519j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716142532j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716142606j:image
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 最も飢えが激しかった言い出しっぺの鬼柳以外の3人はなんだかんだ、「結局は一時の退屈しのぎでしかない」「体制に喧嘩を売っても勝てない」という冷徹な現実が見えていた。それが一層、仲間も自分と同じ夢を見続けていると信じてこうなってしまった鬼柳の痛々しさ、仲間を大切にしすぎて鬼柳を見捨てられず自己犠牲になってしまう遊星という構図のしんどさを強調する。

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 「このサテライトからどこへ逃げるってんだよ!」

 この台詞にダークシグナー編のチーム・サティスファクションの物語の全てが詰まっていると言っていいだろう。めちゃくちゃ陰鬱で救いのない話である。

 その後は順当な経過を辿るだけなので省略する。結局チーム・サティスファクションは権力に歯が立たず敗北し、鬼柳は収監されて熾烈な虐待を受ける。鬼柳の自業自得と言ってしまえばそれまでだし、遊星への感情は100%逆恨み以外の何でもないが、通低しているのは最初から最後まで一貫して「被差別地域から出られない若者の閉塞感」だ。

 遊星は結局この戦いで鬼柳を救えずに終わるが、つまるところ鬼柳の抱えていた問題はサテライトを差別的な扱いに置く社会そのものの問題なので「絆」の強調だけで解決できるようなものではない。過去の遊星がどんな判断をしていようがどのみち鬼柳は救えなかった、といったところだろう。

 ただ、この「絆の強調だけではどうしようもない差別的・抑圧的な社会の問題を絆の強調で強引に突っ切る」傾向は結局ダークシグナー編のラストでも発動してしまう。悲壮なドラマと共に死んでいったダークシグナーたちはゴドウィン兄弟を除き雑に全員復活、カーリーに至ってはジャックとの関係そのものを事実上なかったことにされ、ジャックはそれ以後アーククレイドル編に入るまで非常に長い成長リセット。遊星の語る「絆」はほぼ単純な「今一緒に戦っている仲間との絆」の意味合いになり、サテライト差別問題は概ね解決したことになって以後ほぼ出てこなくなった。

 これについてはダークシグナー編自体の竜頭蛇尾感、消化不良感と言わざるを得ない。差別問題は扱いが難しすぎるため結局強引に突っ切るしかなかったと言えばそれまでかもしれないが、チーム・サティスファクションの過去話があれだけ悲劇として完成度の高い仕上がりだったのに……とは感じてしまう。絆の強調だけで強引に突っ切って差別的・抑圧的な社会を変えたことにするのではなく、絆や仲間のあり方を考えることから始まる具体的で長期的な社会変化の過程を見てみたかったようにも思う(フォーチュンカップ編がそれに該たると言えばそうかもしれないが)。

 ただ、ダークシグナー編ラストのレクス・ゴドウィン戦は、f:id:kumota-hikaru:20210716155406j:image
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 雑賀回以降のフォーチュンカップ編からダークシグナー編にかけての遊星やジャックの物語、「断ち切ろうとしても断ち切れないものが絆」という文脈の集大成でもあり、このデュエル単体で見た場合には悪くない(ジャックのかませ化や遊星の強引な絆連呼など、その後の良くない傾向の片鱗がこの時点で出ている感もあるが)。ここまでフォーカスしてきた回のほとんどが鈴木やすゆき脚本であり、改めて鈴木やすゆきの作家性の大きさも感じる。

 ここまでチーム・サティスファクションに……というより遊星、ジャック、鬼柳の背負ったテーマに焦点を当てて前期5D'sを振り返ってきた。

 最後の方は不満もあったし、実際ダークシグナー編終盤からWRGP編にかけては不満が大きい(再びチーム・サティスファクションの話がなされるクラッシュタウン編についても、ネタ的にはともかく物語的には特に見るべきところはないように思う)。ただ個人的に不満の大きかったジャックの成長リセットに関してはアーククレイドル編に入って巻き返しが始まるし、遊星の語る「絆」についても最終回でようやく、雑賀回で語った「離れ離れになっても消えないものが絆」に帰ってくる。

 前期5D'sについて考えることは5D's全体のテーマを、ひいてはアニメ遊戯王そのものに一貫するものが何かを考えることにも繋がる、私はそう感じている。