マニアリブート

マギアレコード、アニメ遊戯王etc

雑記(遊戯王):カードの能力でキャラが自己表現する展開

 カードの効果で自己を表現する。 

 それはアニメ遊戯王に時折見られる展開であり、一般的なバトル系の作品では「異能で自己を表現する」ことに相当する。

 特に主要キャラクターのエースモンスターの効果。

 様々な例があるが、「この場面での効果の使い方には使用キャラのあり方そのものが仮託されている」と感じさせられるシーンが幾つか存在する。

 その中でも特に「うまくハマった」「カッコいい」と自分が思っている3つのエピソードを取り上げたい。

 能力による自己の表現が使うキャラクターのあり方そのものや物語上のアンサーと上手く重ね合わさった時、非常に印象に残るクライマックスが生まれる。

 

①スターダスト・ドラゴン

(5D's24話『ヴィクテム・サンクチュアリ 破壊を包む星となれ!スターダスト・ドラゴン』、不動遊星vs十六夜アキ)

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http://takaoadventure.blog98.fc2.com/blog-entry-710.html

ついに二匹の龍が激突する!
こうしてエースカード同士が激突する場面ってのはいいものです
しかし今回の遊星のカッコよさは異常!
やけに台詞が熱いし、デュエルの中でアキを救おうとしてたし
わざわざ攻撃力の低いスターダストを召喚して会場の皆さんを守ってたし
一度のデュエルで2つも3つもの配慮をしていた遊星は
これまで以上にカッコ良かったです。
「何度でも受け止めてやる!全部吐き出せ、お前の悲しみを!」
とか遊星さんマジ漢!(真性のドМともいいますが…)

http://takaba1192.livedoor.blog/archives/2684202.html

・遊星の言葉
「楽しくないんだろ。苦しいんじゃないのか?」
「お前自身が変わる時がやってきたんだ。
 お前を苦しめてきた破壊への喜び、その痛みが
 同じ痣を持った俺たちが共有する痛みに変わってきたんじゃないのか!?
 俺たちを導いたこの印、この痛みは何かを訴えている。
  その答えを得るには自分で考えなければいけないんだ!
  その答えをこの痣は持ってるんじゃないのか?
  考えを預けるな!お前自身で考えるんだ!」

 

アキ「魔女の私が何を考える。ディヴァインが私を導いて 愛してくれればそれで…」
遊星「ちがう!お前がお前を愛するんだ!」
アキ「そんな事ができれば…できれば…
   できないから苦しんでるんじゃないか!!」

 

アキ「フィールドの全てのカードを破壊する!」
遊星「何度でも受け止めてやる!全部吐き出せ!お前の悲しみを!」
ストーリーというか会話がデュエルの展開とかみ合っていていいですね…!

スターダストの効果は主人公のエースモンスターにしては微妙だなと思ったんですが
全てを受け止める遊星には合ってると思う。
というか遊星が本当に真正面から全てを受け止めるので眩しすぎる。
最近の中の人のブログが遊星の事でテンション上がってるのも無理は無い。

(※引用箇所の台詞が一部間違っていたのでこちらで修正)

 

 「主人公がエースモンスターの効果で自己を表現する」展開の中でも、おそらく最も有名かつ人気の高いデュエルだろう。

 20thデュエルセレクション(公式の名デュエル投票)の5D's部門でも、1位~4位の他のデュエルが全て終盤から選ばれている中、番組初期のデュエルでありながら2位にランクインしている。

 社会から孤立して悪い大人に利用され、悲しみゆえに暴れて周囲の全てを破壊しようとするヒロイン(の操る、「全てのカードを破壊する」効果を持つブラックローズ・ドラゴン)を、スターダスト・ドラゴンの「破壊を無効にする」効果で二度に渡り真正面から受け止め、自分だけが傷つきながら周りを守って破壊を防ぐ。

 ごくごくシンプルで正統派の筋書きだが、そこにある台詞の熱量と主人公の真っ直ぐさがただただハイレベルであるために、シンプルだからこそ極めて印象的なエピソードになっている。

 「(愛を語る悪い大人の言うがままではなく)お前自身がお前を愛するべきなんだ」と正論をぶつけつつ、それだけでは(今は)解決できない相手の苦しみがあることが示された上で、動じることなく真正面から引き受ける、痛みを分かち合おうとする姿勢。

 それがスターダスト・ドラゴンの一見して主人公らしくない「守る」能力とシンクロし、厨二的でポエミーな台詞回しも「ただ者じゃなさ」を補強する方向に働き、「デュエルを通して相手に何かを伝えようとする」展開の代表例として完成している。

 

②No.62 銀河眼の光子竜皇

(ZEXAL135話『未来をこの手に!銀河決戦終結!!』、天城カイトvsミザエル) 

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http://fanblogs.jp/animeigen/archive/1986/0

大の字に倒れたカイト。
カイトを支えるオービタルも限界だ。

そこへ遊馬との通信が繋がった。
ミザエルはドン・サウザンドとベクターの凶行を知る。
遊馬はミザエルを説得してデュエルをやめさせようとするが、
カイトは立ち上がり、デュエルでのミザエルとの決着を望んだ。

カイト「遊馬、覚えておけ。
誰にでも必ず別れは来る。いつか突然に。
それはお前と…アストラルにもだ。
だから、俺で慣れておけ」

これまでも幾度となく突然の別れが遊馬を襲っている。
その上でカイトは耐えろと遊馬を奮い立たせようとしている。
非情なる戦い。非情なる決着。それら全て乗り越えて前へ進めと。

 

カイト「いや、未来は…俺たちの
未来の光はまだ消えていないさ。
今こそ甦れ! 未来を操る光の化身!!
No.62 銀河眼の光子竜皇!!!」

カイト「時を遡ることはできても
俺の未来を支配することはできない」

 

カイトは構わずプライム・フォトンで攻撃宣言。
ぶつかり合う永遠なる光子と究極なる時空。
そのさなか、ミザエルは自分の幼少期を顧みた。

家族を殺され、故郷を滅ぼされ、荒野を歩き疲れ、倒れた幼ミザエル。
その手に1枚のドラゴンのカードが現れる。光り輝くドラゴン。
ドラッグルーオン、ジンロンとの出会いだった。
ミザエルはカイトに哀れむのはよせと言ったが…

カイト「哀れんでなどいない。
最強のドラゴン使いは、お前だ。

俺は、弟と親父を救いたい。
その一心でドラゴンを利用しただけだ。
ギャラクシーアイズの力を。だがそのたった1枚の
カードとの出会いが俺を導き、俺をここまで強くした。
俺はギャラクシーアイズに導かれ、遊馬に、
アストラルに出会い、凌牙に、たくさんの仲間に出会い、
そして、お前に出会うことができた。

そいつらは孤独で、誰も信じることができなかった
この俺に、人を信じる力を教えてくれた。
なあ、ミザエル。もし次に出会えることがあったなら、
お前に何があったのが聞かせてくれないか」

 

 こちらも20thデュエルセレクションのZEXAL部門で3位に入っており、今も語り継がれる人気の高い回だ。

 特に「(いつか来る別れに)俺で慣れておけ」は強烈な印象を残し、カイトを象徴する台詞の一つとして扱われている。

 この回のカイトは「自分にもう未来がないことを知りながら、なおも未来へ向かい続ける」姿勢を示し続けることで周りの心に影響を与えており、プライム・フォトンの「未来へ向かう」効果もその体現になっている。

 この効果はミザエルのネオタキオンの「時を遡る」効果と対になっており、人を信じられずドラゴンとの絆に固執して前に進めずにいたミザエルとの対比にもなっている。

 だがそれを単なる弱さとして切り捨てることはせず、逆に自分は結局のところドラゴンを利用したに過ぎないという己の弱さを告白し、ドラゴンとの絆が呪いと化してもなお信じ続けるミザエルの真っ直ぐさを汲み取って、その上で真正面から超えていく。

 短いやり取りの中に凝縮されたものが非常に多いデュエルで、切なくも静かな希望が通低した独特の空気がそこにはある。

 

ファイアウォール・ドラゴン

(VRAINS20話『ゆずれない正義』、藤木遊作/Playmaker vs 財前晃)

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https://yugioh-resaler.com/2017/09/28/post-31371/

財前兄によって、データバンクには『ハノイプロジェクト』の首謀者の名前が記録されていることが判明しました。

当然聞き出したい「Playmaker」ですが、財前兄は「教えるわけにはいかない」と断固拒否。

財前兄は彼なりに「Playmaker」をこれ以上復讐の鬼にしたくはないとの考えがあるようですが、もうすでに火がついている「Playmaker」にはそんな言葉は響きません。

互いの思いは噛みあうことなく、デュエルは続行です。

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「Playmaker」は唐突に「これは正義を貫くデュエル」だとつぶやきます。

これに反応した財前兄は自分の正義を貫く意思を見せますが、「Playmaker」はそれに対し「自分以外の正義は信じない」と断固拒否。

逆転をかけドロー!

 

これで「Playmaker」は攻撃が可能に!

ダイレクトアタックを決めれば一発で勝敗が付きますが、「Playmaker」は「デュエルはただ勝ち負けを決める道具ではない」と直接攻撃を行いません。f:id:kumota-hikaru:20220622081349j:image

リカバリー・ソーサラー》の効果で《ファイアウォール・ドラゴン》と相互リンク状態であった《セキュア・ガードナー》を蘇生し、《ファイアウォール・ドラゴン》の墓地のカードをバウンスする効果を発動。f:id:kumota-hikaru:20220622081401j:image

相互リンクは2体分なので、墓地に存在する《ティンダングル・ハウンド》と《ティンダングル・エンジェル》を手札に戻します。

 

《ティンダングル・ハウンド》または《ティンダングル・エンジェル》が墓地にいると1体につき1500ポイントアップしていたので、どちらもいなくなった今、《ティンダングル・アキュート・ケルベロス》の攻撃力は0に。

そしてバトルフェイズ。f:id:kumota-hikaru:20220623170032j:image

《ティンダングル・アキュート・ケルベロス》への《ファイアウォール・ドラゴン》の「テンペスト・アタック」が決まり、「Playmaker」の勝利となりました。

 

「Playmaker」は財前兄に今後一切この件から手を引くように言います。

「なぜあの時ダイレクトアタックしなかったのか」と財前兄は満身創痍ながら尋ねます。

《ティンダングル・ハウンド》と《ティンダングル・エンジェル》がお互いをかばい合う姿に財前兄妹の姿を重ね、墓地に眠っていてはいけないと判断。f:id:kumota-hikaru:20220622081810j:image
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「俺の復讐に引きずられて闇に落ちる必要はない。お前たちは光さす場所を歩いてくれ」と臭いセリフをはいてその場を後にします。f:id:kumota-hikaru:20220622081839j:image

 

 前に挙げた二つに比べるとややマイナーな回だが、個人的にはそれらに劣らない。

 あまりにも主人公エース向きじゃないコンボ前提の複雑な性能、この回以外での活躍の無さ、結局禁止カードになりエース降板とネタにされがちなファイアウォール・ドラゴンだが、この回だけは効果がきっちり作劇に活かされている。

 遊作という主人公は先に挙げた遊星やカイトと比較すると自己犠牲カラーはあまりなく、「あくまでも自分自身のための個人的な戦いを貫く」ことに特徴がある。

 それがここでは「真っ当な大人の優しさを拒絶して自らの戦いを貫きつつ、しかし決して単に無視して終わりではなく、自分自身の戦いを貫くからこその優しさで返す」という形で現れている。

 「相手の墓地のカードを相手の手札に戻す」という珍しい光景だが、遊作のこの行動には、

1.晃の切り札であるアキュート・ケルベロスの攻撃力を下げ、直接攻撃ではなく相手のエースを戦闘破壊して完全勝利する

2.辛辣な態度を取ってはいるが決して単なる復讐鬼ではなく、目の前の相手をちゃんとよく見ていることを示す

3.幼少期に誘拐・監禁されてデュエルを強要された悲惨な過去があり、復讐の動機にもなっているのだが、それでもなおデュエルを愛しデュエルは単なる戦いの道具ではないと語り、自らの行動でそれを証明できる

 と、一つのアクションに多くの意味合いやメッセージが詰まっている。

 この回でのデュエルに関する理念が以降の展開でも続いたかどうかは怪しいところではあるが、この回だけでもファイアウォール・ドラゴンが遊作のエースを務めた意味はあったと言えるだろう。

 「相互リンクしているモンスターの数だけ好きな場所にバウンスを放つ」効果は「繋がりの数だけできることが増える」能力でもあり、わかりにくいがVRAINS全体のテーマである「繋がり」を表現するものにもなっている。

 

 

 

 

雑記(遊戯王・マギレコ):見ている世界を共有できない孤独

 ある種の“陰”のキャラクターの話がしたい。

 いわゆる陰キャ、内向的なコミュ障。あえて曖昧な定義を使う。クールキャラとはまた違う、オタクとも限らない。

 いわゆる陰キャの心理や質感、生活の中での他者との関わりに焦点を当てた作品。令和の今、それは珍しくない。陰キャやコミュ障という言葉で同じように呼んでいても、その内実は作品やキャラによって全く異なっていたりする。

 その中の一つの類型。

 自分用メモの側面が強く、感覚を吐き出すのが主眼であるため、詳しく解説はしない。

 

 

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 遊戯王VRAINS46話、1年目の最終戦

 藤木遊作/プレイメイカーは、自分では自らの心の孤独をロスト事件(幼少期に受けた誘拐・虐待)の影響によるものと言っている。

 だが、同じロスト事件被害者でも遊作ほど他者との関わりに消極的なキャラはいないこと、両親も死んでいてより悲惨な目に遭っている穂村尊/ソウルバーナーが特にコミュ障さを感じさせないのを見ると、ロスト事件の影響も手伝ったのだろうが孤独の主因は遊作自身の元来の性格に見える。

 見ている世界を共有できない孤独。

 その言葉だけで説明できるものでもないのだが、ここではその側面に重点を置いて考える。

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 ロスト事件から解放された後もトラウマは残り、自分自身の過去に決着をつけるために戦いに身を投じていくのだが、特に人間不信に陥っているような様子、周りに嫉妬して攻撃性を向けるような様子はなかった。

 同志として心から頼りにしている草薙翔一もいたし、「責任感のある大人」を代表する財前晃のように事情を知って親身になってくれる人もいた。誰に対してもそっけないが、20話でファイアウォール・ドラゴンの効果を通して晃にメッセージを伝えたシーンなど、他人の優しさを汲んで自分自身の優しさを伝えられる時もあった。

 だがそれでも自然体の自分を出し切れていたわけではなかった。見ている世界を共有できる相手が欲しい、話せていないことを話したい、そんな欲求が常に心の底に燻っていたのではないだろうか。f:id:kumota-hikaru:20220106213600j:image
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 だから、ようやく見つけた「本心を話せそうな相手」、同じ運命の囚人として過去を共有できる(ように見える)鴻上了見/リボルバーに、思いっきり自分の理想を投影する。

 過去に何が起きたか知ったのが理由とはいえ、世界の命運を賭けた戦い、それも絶望的に追い込まれた状況での宿敵に対する告白(?)に、言われたリボルバーも一緒に戦ってきたAiも唖然としている。

 結論から言えば、この戦いを経た2年目・3年目で遊作と了見の関係はそれほどガッツリ発展はしていない。遊作は一貫して了見を信頼し続けたし、自然と共闘するようにもなったが、結局同じ道を歩んではいないし、最終的に了見が自らの過去を越えるデュエルの相手に選んだのは遊作ではなく尊だった。

 だが……

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 確かに理想の投影だったが、ただの理想の投影ではなかった。
 本人に思いっきり塩対応されても、誰にも理解されなくてもブレることのない熱量。理想の投影から生じたそれが絶望的な状況を覆し、勝利を手繰り寄せてみせた。

 何よりも、

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 優しげな笑みや挑発的な笑みではなく、本気で高揚した笑みを遊作がデュエル中に浮かべていたのは、VRAINS全編通してこのデュエルしかない。

 それも、

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 最初から高揚した笑みを浮かべていたわけではなく、攻め手が悉く凌がれてリボルバーにEXリンクを決められ、逆転困難な状況に陥ってはじめて、普段は追い詰められた時でも浮かべない「柄にもない笑い」を見せている。

 いわゆるジョジョ5部的な「覚悟」、「おもしろくなってきた」の境地の一種がこれなのではないだろうか。

 遊作は別に戦闘狂キャラではなく、普段から追い詰められるのを楽しんでいるわけではない。この戦いの時のみ逆境を本気で面白く感じている理由。それは自らが戦う理由、そこに立って目の前の壁に挑む理由に、それまでの戦いとは異なる心からの納得が存在するからではないだろうか?

 まどマギ9話の杏子の熱量にも近いと思う。戦いの意義への納得、自らの手で運命を切り開いていく感覚。言ってしまえば普段の孤独感の反動から生じた、裏付けに乏しい理想の投影由来の熱量であり、カッコいい一方で冷静に考えるとちょっと危険な心理だったりもする。

 だが、

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 大事なのは、遊作の了見へのスタンスが理想の投影「だけ」ではなかったことだ。

 このデュエルだけで了見を改心させることはできず、了見は塩対応のまま遊作の前から去っていく。だが遊作は了見に相手にされていなくても動揺したり理想を押し付けたりはせず、再び会う時が来ること、了見が変わっていくことを慌てずに待った。

 ここが実は本質であり、孤独を抱えつつもなんだかんだで自己完結している(完結しすぎているきらいもある)遊作の強みであるように思う。理想の投影から生じる熱量を強みにしつつ、理想の投影に振り回されているわけではない。鷹揚さが全体的に見られる。

 2年目で再登場した了見はすぐには変わらなかったが、共通の敵であるライトニングやボーマンとの戦いの中で次第に態度が軟化していく様子が見られ、f:id:kumota-hikaru:20220113185314j:imagef:id:kumota-hikaru:20220113185327j:imagef:id:kumota-hikaru:20220113185344j:imagef:id:kumota-hikaru:20220113185402j:imagef:id:kumota-hikaru:20220113185418j:imagef:id:kumota-hikaru:20220113185434j:imagef:id:kumota-hikaru:20220113185450j:imagef:id:kumota-hikaru:20220113185506j:imagef:id:kumota-hikaru:20220113185521j:image

 最終的には、

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 1年目のラストとは逆に、了見が遊作を信じて待つ構図となった。

 他人を伴わず一人でAiとの決着に赴く遊作の意志を尊重しつつ、最終戦のキーカードの一枚(ヴァレルロード・F・ドラゴン)を投げ渡して背中を押し、決戦後に遊作が行方を絶っても必ず帰ってくると力強く言い切る。互いにそっけなく最後はそれぞれ別の道を行きつつ、根底には互いへの強い信頼があるこの二人らしいと言えるだろう。

 一方で、1年目の最終戦と同じようなデュエル中の高揚を遊作がもう一度見せる機会はついに訪れなかった。

 2年目以降は遊作の関係性の軸足が了見からAiに移っていたこともあり、遊作が理想の投影を必要としなくなったとも言える。その反面で、復讐や理想の投影に代わる新たな戦いの意義、本気の熱をもって挑めるものを最後まで見つけられなかったとも言える。

 「見ている世界を共有できない孤独」に加え、この「本気になれるものの欠如」に焦点を当てながら、次の話に移っていく。

 


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 マギアレコード、保澄雫MSS1話。

 先ほどまでの遊作より明確に、自らの孤独の原因を元来の性質と捉えている。実際その通りだろう。環境に問題があるわけでも過酷な過去があるわけでもなく、内心の孤独を隠せば普通に友達付き合いもできる。

 だからこそ、見ている世界を共有できない孤独を誰のせいにもできない。そしてその断絶感の根底にあるのが「関心を持てるもの・本気になれるものの不在」であることが冒頭から示されている。

 「やりたいことの不在に悩む」性質は、雫に限らずマギレコの光属性キャラ全般に広く見られる。もっと言えば、まどかや織莉子といったマギカシリーズの過去の光属性キャラも同じテーマを持っている(まどかMSSではよりはっきり、雫とまどかが互いを「自分と同じ」だと気付くシーンがある)。

 だが雫の場合は他の似たキャラと比較しても内向性が突出しており、サブの位置から始まったキャラでありながら時にメインストーリーの流れとリンクして、長きに渡り己の心の答えを探し続けることになる。f:id:kumota-hikaru:20220113212555j:imagef:id:kumota-hikaru:20220113212618j:imagef:id:kumota-hikaru:20220122012311j:image
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 そして想いを寄せたふーにいの死をきっかけに、「居場所」探しを始めることになる。

 雫のモノローグとふーにいの台詞をよく見比べると、同じものを目指しているように見えて全く違う。ふーにいは死に場所を探しているのに対し、雫は自分の夢、やりたいことを探している。雫は「居場所」のワードと不可分のような印象を持たれがちだが、実はふーにいが死ぬ前は雫はこの言葉を使っていない。

 だが雫にとって、居場所を求めて放浪するふーにいは、初めて見つけた「自分と同じかもしれない人」だった。自分がしっくりくる場所を見つけられない感覚、同じ孤独を抱えていて、互いに通じ合えるところがあったのは事実だった。ふーにいとなら見ている世界を共有できそうに思えた。理想の投影である。

 ふーにいは事故で唐突に死んでしまう。このことで「終わりはいつ訪れるか分からない」という事実を強烈に叩きつけられたのも加わり、以後の雫には生き急ぎ癖がつく。ふーにいが探していたものと自分が探していたものを同一視するようになってしまう。

 「居場所」のワードは1部における雫の基礎になっており、この言葉を起点にして色々なことを考え、様々なキャラとの関わりを積み重ねてきたのは事実だ。その反面、このワードは雫に自らの本来の願いを見失わせる呪いとしても機能している。f:id:kumota-hikaru:20220113224328j:imagef:id:kumota-hikaru:20220113224345j:image
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 みかづき荘に招かれて温かく迎えられ、一度は腰を落ち着けかけるも結局急に去ってしまったこの時の心情も、「同族でない」「自分は疑似家族にはなれない」のを直感したことが大きいように思われる。

 この時雫を誘ったいろはの接し方は雫の人格をかなり尊重したものであり、一度はそれに絆され、みかづき荘の方は本気で雫を疑似家族の一員として受け入れるつもりだった。一方でこの雫の直感が間違っていたとも思えず、ここで踏みとどまったとしてもいずれ出ていくことになったと思う。

 つまるところ、見ている世界を他人と共有したいと願い、他人との繋がりを求めつつも、一人になれる時間がないこと、自分のことを自分で決められないことにも耐えられない。周囲と異なる自らの興味関心に忠実に動くので、良きにつけ悪しきにつけ行動が常にどこか唐突になる。そういうところにある種の陰キャの本質がある。

 だから……


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 その後最も長い付き合いになる毬子あやかが、方向性の異なる陰の者なのも不思議なことではない。f:id:kumota-hikaru:20220114063158j:imagef:id:kumota-hikaru:20220120195442j:image
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 あやかは雫ともふーにいとも全く違うタイプに見える。雫の方も、あやかが自分と同じ視界を共有できるとは思っていない。

 だが、見ている世界を他人と共有できない人間なのはあやかも同じだ。自分の興味関心(つまらないギャグセンス)に忠実に動く結果、友達付き合いは雫より少なく、自分の好きなものを他人と共有できない。にも関わらずいつも笑顔でいて、他人も笑顔にしたいという気持ちに曇りがない。

 あやかには潜在的に雫と近しい性質があり、しかし雫にないものを持っている。雫があやかに惹かれた理由には様々な側面があるが、ふーにいの時と実は似ていて、無自覚に同族の匂いを感じ取っているように見える。後に雫と同じようにあやかに惹かれて弟子入りした桑水せいかも、あやかのギャグに惹かれたのではなく、ギャグがウケていないのに折れないハートに惹かれていた(その結果、陰の者濃度の凄まじいトリオが誕生していた)。

 見ている世界を共有できない孤独を抱えた同族というだけなら、マギレコ世界に他にも該当するキャラはいる。その中でもふーにいやあやかのように、「微妙に抜けたところがあり、報われない」「だが志に嘘はない」人に強く惹かれる傾向が雫にはある。本人にも自覚なく「この人には自分が必要だ」「この人となら必要とし合える」という直感が発生しているのではないだろうか。

 ふーにいの時は理想の投影の色が濃かった。あやかと雫は見ている世界を共有できないのが明らかで、理想の投影のしようがない。だが、だからこそその後が続いた。

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 通じ合えると感じた相手、興味を持った相手のことはよく見ている。だから、あやかの様子がおかしいと感じた時は躊躇なく内面に踏み込み、その心の問題を取り除いた。f:id:kumota-hikaru:20220114115413j:imagef:id:kumota-hikaru:20220114115555j:imagef:id:kumota-hikaru:20220114115610j:imagef:id:kumota-hikaru:20220114115625j:imagef:id:kumota-hikaru:20220114115635j:image

 願いで得た自らの明るさは偽物ではないかと悩むあやかに雫がかけた言葉は、あくまで願いで性格を変える以前のあやかを知らない立場からのものだ。そしてだからこそ、「無理をしている感」なく背中を押す言葉になっている。

 現に「今のあやか」に勇気をもらい、今のあやかのことをよく見ている視点から率直に感じたことをそのまま、しかし順序立てて伝えた。だからこそ、笑顔の裏にたった一人で悩みを抱え続けていたあやかの心にも響いたのだと思う。

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 その後「居場所探し」の相談をあやかにするようになるが、ふざけられてしまいあまりに進展がなかったことから、みかづき荘の時と同じようにあやかの前を去ってしまい、マギウスに勧誘と洗脳を受けたのも重なって不安定な状態に陥る。

 そして……

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 令と郁美との出会いもあり、回り道に回り道を重ねた末、ここではじめて自分にとっての「居場所」の中身を定義する。

 自然体の自分でいられる関係が欲しい。本心を出したい。それは元々抱えていた渇望の全てではないが、「居場所」という言葉から前進した言語化としては大きな意味があった。

 自然体でいられる居場所。それが具体的にいかなるものなのか、この時点(羽根の行方イベスト、1部終盤)ではあやか達との和解やマギウス関連のゴタゴタで精一杯で、「その後」が描写されるまで待つ必要があった。

 そして2部に入る直前。一見目立たないハロウィンのミニストーリーだったが、

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 そこにはきちんと1部での関係の蓄積を踏まえた中間着地点、「居場所」「自然体」の答えがあった。

 雫とあやかの間には越えられない断絶がある。それはどうやっても埋めようがない。見ている世界を共有できない孤独を解消することはできないし、見据えている夢も違う。

 そのことを互いに知った上で、なお望んで一緒にいる。互いに自分の存在が相手にとって大事なものだと理解し、それを前提にした付き合いができるから、お互い良い意味でワガママになりながら相手への気遣いも自然と出せる。この二人は別に幼馴染ではないのだが、概念幼馴染とでも言うべきだろうか(?)。

 見ている世界を共有できる理想の関係になれなかったとしても、なお断ち切ることのできない大切な繋がりがある。f:id:kumota-hikaru:20220114084419j:imagef:id:kumota-hikaru:20220114084435j:imagef:id:kumota-hikaru:20220114084457j:image

 そんな関係を、このやり取りが端的に表現していると言えるだろう。

 

 このシナリオは「頼らせてほしい」というあやかの「お願い」を中心にした一見地味なものに見えるが、そこではこの二人だからこそ成立した「頼る・頼られる」呼吸の仕方がきっちり描かれている。

 現在この記事を書いてる時点では2部の後半に入り始めた辺りだ。2部中盤以降、メインストーリーと連動して雫の存在感は増していったが、既に半分以上は越えているはずの「居場所」のワードが一人歩きしている節も時折見られた。

 こういう「懐の広いキーワード」が、当初は物語の深化に貢献していたものの、話が進むにつれ一人歩きし、字面の印象に引きずられていく現象は作品問わずよく見られる。「絆」、「心の闇」、「希望と絶望」など。

 しかし、令や郁美との関係の変化を見ていても、1部終了後の雫の繋がり描写には、「頼る・頼られる」を描くことに重点を置く傾向が当初はあった。

 これは自然なことだ。自分の興味関心に従って動くといっても、同じマギレコキャラのアリナ・グレイのような超人ではないので、誰にも依存せず一人で歩き続けられるほどの強さはない。かといって自分の道を自分で決められないことにも耐えられない。

 そんな人間こそ「頼る・頼られる」とは何かを知る必要があるからだ。

 

 この「頼る・頼られる」及び、ここまで扱ってきた「同じように孤独な同族への共感」と関連して、最後にもう一つ取り上げたいエピソードがある。

 といっても、ここまでとは違って「ある種の陰キャ」の話ではない。f:id:kumota-hikaru:20220114094939j:image

 遊戯王ZEXAL134-135話、カイトとミザエルの最終戦

 カイトは特に陰キャやコミュ障ではなく、謂わば正統派クールキャラだし(遊戯王キャラなので奇行は山ほどあるが)、孤独にしても元来の性質由来というより環境が原因であることが明示されている。ここまで扱ってきた例とは明確に性質が異なる。

 しかし、このエピソードにおけるカイトの言動にはそれらの違いを超えた普遍的なテーマが滲んでいる。

 引用させていただく。

https://slowly47837.hatenadiary.org/entry/20131222/p1


ミザエルに、お前はドン・サウザンドに利用されたのだと、ジンロンは言う。

このデュエルで、お前の進むべき道を見つけろ、と。

 

ミザエルは、真実を知り、激しく動揺する。

 

 バカな!この私が、ドン・サウザンドに!

 ならば、私が信じてきたタキオン・ドラゴンが、

 ドン・サウザンドの呪いだと言うのか!!

 

 私は信じぬ!

 タキオン・ドラゴンが私を裏切るなど!! 

 

 カイト「それでいい。

     それでこそ、真のドラゴン使い。

     お前はいつでもドラゴンを信じてきた。

     今度こそ、自分の運命を諦めるなよ!」

 

真実を知ってもなお、時空龍を信じ続けるミザエルを、カイトは否定しません。

このシーン、このカイトの言葉にぐっときました・・・。

 

それは、同じドラゴン族使い、銀河眼使いだからこそ、

ミザエルの気持ちを理解してくれている、のかな。

 

106話のカイトの台詞を見ると、いかにカイトが自身と銀河眼との絆を強く信じているのかが分かります。

その点では、カイトとミザエルは本当によく似ている。

 

106話の遺跡回で、ジンロンはカイトにこう言ってます。

 

「お前にはどんな窮地に立っても、決して己の運命を諦めない力がある。

 自らの命を諦めたミザエルと違ってな。」

 

ミザエルに、自分の命を、運命を、諦めて欲しくなかったジンロンのその思いを、

カイトはちゃんとくんでくれた。

だから、「今度こそ自分の運命を諦めるなよ!」と言ってくれたんですね。

https://slowly47837.hatenadiary.org/entry/20131229/p1

 なぁ、ミザエル・・・。

 もし、次に出会える事があったなら、

 お前に何があったのか、聞かせてくれないか?

 

今なお銀河眼との絆を強く信じ続けるミザエルに対し、

カイトは自分は銀河眼を「利用しただけだ」といい、

ミザエルのように最初からドラゴンを信じてた訳ではなかった事を告白しています。

だから「最強のドラゴン使いは、お前だ」と認めたのかな。

 

それでも「ギャラクシーアイズに導かれ」、

遊馬達と出会い、仲間達と、銀河眼との絆も芽生えた。

 

カイトは過去の自分が、誰も信じる事が出来なかった事、

それがかつての己の欠点であった事を、認めています。

 

WDCまでは、カイトは誰にも頼らず、自分一人の力でハルトを救おうとしていた。

弟の命の危機に、父親の豹変、Mr.ハートランドの過酷な訓練と指令、師であるVが突然去った事。

人を信じず、頼ろうとしなくなったのは、こうした事が関係しているのだと思います。

思い詰めたカイトは、たった一人で戦う決意をする。

その為には犠牲も厭わず、悪魔に魂を売ってまで・・・。

 

そのお陰で、強靱な精神を持つようになりましたが。

人を信じないままではいけなかった事を、今のカイトはちゃんと分かっている。

それを教えてくれたのが、遊馬だった。

 

かつては同じように人を信じなかったカイトだからこそ、

人を信じずに、ドラゴンに強く執着するミザエルを、理解する事ができた・・・。

 

そして最後に、ミザエルに「次に出会える事があったなら」と語りかける。

ミザエルの荒涼とした目がドラゴンに似ていると言ったのに対し、

私を哀れむのはよせ!と返した事からも、

ミザエルの過去に何かがあった事を、カイトは察している様です。

 

もしも時間が許すなら、ミザエルをもっと知り、理解したかった、のかな・・・。

 カイトというキャラは、今でこそ遊戯王シリーズ屈指の強ライバルという評価を得ている。実際、主人公である遊馬・アストラルに一度も負けずに終わっているのは事実だ。

 しかしリアルタイムで視聴していた感覚としては、カイトがそこまで圧倒的に強いキャラだという印象はなかった。「トロンにしか負けていない」ことがよく強さの証拠として挙げられるが、これは「結果的に負け星がつかなかっただけ」に思える。

 最強キャラだったのは最初期だけで、WDC編では遊馬やシャークとタッグを組むたびに超銀河眼の素材を揃えてもらっていたし、Ⅱに入ってからもvsミザエル1・2戦目やMr.ハートランド戦など、そのまま続行したら負けていそうなデュエルでは中断や引き継ぎが発生する展開が多かった。実際にはものすごく周り(主に遊馬)に助けてもらっていたし、運に恵まれて危機を脱することも多かった。

 それでも強キャラとして語り継がれている。この最後のデュエルが強烈に印象に残るのが理由として大きいと思う。

 一人で戦っていた頃のカイトは他人を頼ろうとしなかったが、結果的に遊馬にものすごく助けてもらう形になった。このデュエルでのカイトは逆に、遊馬やミザエルに希望を託すことが前提の戦いをしている。そしてだからこそ、たった一人でゼロから希望を紡ぎ出すポテンシャルを最大限に発揮している。

 その上で、カイトの過去は単純な過ちとしてしか機能していないわけではない。人を信じて頼ることができなかった過去があるからこそ、同じように人を信じられなかったミザエルの気持ちを汲み、その強さを見つけ出して、心から応援することができる。

 ミザエルがデュエル中に取り戻した記憶、彼の過去に何があったのかをカイトは知らない。だが、人を信じて頼ることができないにはできないなりの理由があることは分かる。それでも力になりたい、頼ってほしいという意思を伝えたい。

 だから自分自身の弱さを先に告白し、お前に出会えて良かったと直球の好意を伝えた上で、「聞かせてくれないか」と、ほんの少しだけ俺を信じて頼ってくれないかと「お願い」した。

 頼る・頼られることへの抵抗感を尊重する意思と、それでもなお頼ってほしい・頼らせてほしいという希望の裏付けを同時に伝える。その具体化の一つが、様々な文脈や感情を乗せた結果として逆にシンプルな言葉で出力された「お願い」なのだろう。

ミザエルはカイトに近づき、力なく震えるカイトの手からヌメロン・ドラゴンのカードを受け取る。

 

 ミザエル・・・行け。

 自分の信じる道を。

 

カイトはミザエルに対し、こうしろという具体的な事は言いませんでした。

 

人を信じられないミザエルに、似たもの同士であった自分が理解を示す事で、

その頑なな心を溶かした。

 

後は何も言わずとも、分かってくれるはず。

だから、ヌメロン・ドラゴンのカードを託した・・・。

今のミザエルなら、そのカードを間違った事には使わないと、カイトには分かっているんだろうな・・。

 真実を知ってなおネオタキオンを信じ続けるミザエルを「それでいい」と肯定し、似た者同士でありながら自分にないものを持つミザエルへのリスペクトを示し続けながらも、それまで無敵の切り札のように扱われていたネオタキオンを三度に渡り破壊し、カイトはデュエルにしっかりと勝利した。

 その結果ミザエルはバリアンの力を失い、タキオンが使えなくなり、今までの寄る辺を全て失って一人になってしまう。だがカイトはそんなミザエルに自らの存在と希望を託すことで、一人になっても歩き続けられるよう背中を押そうとした。

 「人を信じて頼ろうとしないままでは限界が来る」ということと、「最後まで諦めずに自分を信じて戦い抜いてほしい」ということ。カイト自身の経験から感じた二つのことを同時に伝えようとした。同族であるミザエルに伝えたかったことは、過去の自分自身に伝えたかったことでもあるのだろう。

 

 吉田伸が構成を担当したアニメ遊戯王は、「一人になってしまった人・一人になってしまう運命にある人に、何を伝えられるか」を一貫したテーマとして持っている。

 ZEXALのカイトとミザエルのエピソードは、その到達点の一つとして挙げたかった。

 アニメ遊戯王が今後も続くかは分からないが、このテーマが意味を失うことはない。

 どんな作品であっても。

ドーマ編再評価~心の闇と光の器~

 アニメ遊戯王DM、ドーマ編。

 それは……

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 一時代を築いた例のアレの出身地である。某動画サイト黎明期に遊戯王ブームの火付け役となった例のアレ。

 ……それはさておき。

 初代アニメ遊戯王(※東映版を除く)ことDMで、1年近くに渡り放送されたアニメオリジナルストーリーのドーマ編。

 その評価は当時も今も高いとは言えない。というより、当時の不評を今も引きずったまま再評価の機会を与えられずにいるように見える。

 その後のアニメ遊戯王を支えることになる吉田伸の代表作の一つであり、後に原作から独立して歩んでいくアニメ遊戯王に与えた影響が非常に大きいにも関わらず。GX3年目も当時の評価は散々だったが割と早期に「暗い遊戯王」の先駆けとしてのポジションを確立したのに対し、ドーマ編は今でもネタ・黒歴史扱いで終わってしまうことが少なくない。

 

 それはDMという作品そのものの位置付けの特殊性によるものも大きいだろう。完全にアニメ遊戯王として原作から独立したGX以降に比べ、DMは原作との比較を逃れえない・原作の影に隠れやすい分かえってスポットを当てられにくい傾向がある。

 もちろん、原作ファンからしたら不満が挙がるのは当然とも言える要素を多く含んでいるのは事実だ。あらゆる意味で原作から逸脱した内容。闇遊戯を実力負けさせヘタレてる様子を散々に描く、原作では悪役要素のない竜崎や舞を闇堕ちさせる。「心の闇」をテーマにしていることもあって「キャラの負の面」を描く傾向が強く、それが既存キャラにも容赦なく及び、そのキャラの特に原作には無かった要素から心の闇が出てくる。「原作からのキャラ改変」は事実だし、またそこまで大胆なことをしながら必ずしも全てのキャラを最後まで丁寧に描き切っているとは言えない。賛否両論になるのも当然だ。

 

 だがそれらの点を踏まえてなお、アニメのキャラ付けを原作とは別物と割りきれば今見ても決して質の低い内容ではない。吉田伸の大好きな「心の闇」はドーマ編が初出なことで有名だが、その後擦られすぎた感はあるもののドーマ編単体で見るなら「心の闇」は決して陳腐なワードではない。今見ても十分に見応えがあり、むしろ「心の闇」シリーズの最初の作品にして総合的な完成度はトップなのではないかとすら思う。

 例えば「チートオリカ量産」がドーマ編の特徴としてよく槍玉に挙げられるが、これは「アニメオリカの大量投入」という文化そのものがDM放送当時は根付いてなかった、ドーマ編が先駆けだったからこそ当時受け入れられなかったという側面が強そうに思える。確かに(当時の環境での)チートオリカも多いが使い道ゼロの産廃オリカもかなり多く、原作や後のアニメシリーズに比べてドーマ編のオリカが特別チートばかりという印象はあまりない。

 チートの印象が強いとすれば後述のオレイカルコスに加え、手札を使いきってはぶっ壊れドローカード(天よりの宝札、運命の宝札、命削りの宝札)で強引に大量補充する展開の多さからだろうか。しかしこれはGX以降の「1ターンが長いデュエル」とはまた違った「テンポよくターンを渡し合う一進一退のデュエル」を支えるものにもなっている。各キャラのエースカードが明確に定まっていないことも手伝い、ドーマ編のデュエル構成には以降のシリーズと趣向の異なる良い意味での展開の読めなさがある。

 

 このように、ドーマ編は「先駆けゆえに評価されにくかった要素」と「後のアニメシリーズには見られないドーマ編独自の個性」がいずれも色濃く出ている。

 アメリカを舞台にした圧倒的なスケール感、荒野だったり列車の上だったり飛行機の上だったりで戦う放浪感。それらがエモいBGMや流動的な展開と相まって独特の終末感を出しているのも見逃せない。世界の命運を賭けてデュエルするようになったのがドーマ編からというのは有名だが、ドーマ編のスケール感の作り方・絵作りの上手さは後のシリーズと比較しても光るものがある。

 「先駆け性」と「独自の個性」がどちらも強く出ている例の一つに、オレイカルコスの結界も挙げられる。

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 リアルタイム放送当時の私は小学生だったのだが、オレイカルコスの結界の「発動されて負けたら魂を奪われる」は本気で怖かった。

 もともとDM自体が原作からしてダークな要素を持ってたし、ボス戦では闇のゲームも発生してたし、パンドラ戦の足を切断される恐怖やアニオリのバクラvs骨塚のホラー演出も普通に怖かった。だがそれにしても章全体を魂奪われる恐怖が支配しているというのは初めてで、長い長いバトルシティを終え新章に入っていきなりのこれは相当のインパクトだった。と同時に強く引き込まれた。

 「新章の敵側が共通装備で使ってくる独自システム」は後のアニメ遊戯王で定番化している。ダークシンクロ、地縛神、機皇帝、RUM、裁きの矢……オレイカルコスはその先駆けなのだが、後のシリーズと比較してもそのストーリー上での存在感は図抜けている。

 それは「使用者やモンスターの額に紋章が現れ、フィールド全体が結界に包まれる絵的なわかりやすさ」「一律500アップ・除去不可能というシンプルながら理不尽な強さ」「魂を奪われる恐怖」と、盛りに盛った理不尽さ・恐怖演出が効果的に作用しているからだ。長いバトルシティを終えて様々な因縁に決着がつき、行ける世界が広がった直後に現れる全く未知の理不尽と恐怖。後のシリーズだと地縛神が近い存在感の出し方をしていた。

 そしてこのオレイカルコスという未知の恐怖との戦いはそのまま、原作では明確なテーマになってはいなかった「心の闇」という未知の恐怖との戦いとリンクしていた。f:id:kumota-hikaru:20211010202558j:imagef:id:kumota-hikaru:20211010202614j:image
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 メイン3人(遊戯、城之内、海馬)にはそれぞれ章全体を通してのライバルキャラとテーマが与えられ、状況的にも精神的にも苦しい戦いを強いられることになり、
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 「心の闇」という漠然としたキーワードのもと、心理フェイズに重きを置いた濃密な、そして主人公側も敵側もずっと苦しいデュエルが繰り返される。

 海馬と城之内は章の最初から最後まで折れない強さ、しっかり戦いながらも敵のことをよく見ている器の大きさが描かれていた(特に海馬vsアメルダ2戦目はDM全体を通して屈指の出来だ)。だが闇遊戯はvsラフェール1戦目でプライドと勝利に拘るあまり、渡されたオレイカルコスの結界を使ってしまった上に敗北して表遊戯の魂を奪われ、f:id:kumota-hikaru:20211010204503j:image
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 自らの心の闇を浮き彫りにされる形で散々に醜態を晒し、煽られ、精神的に追い込まれることになる。しかも結構長い間。

 冒頭に挙げたバーサーカーソウルのくだりも、

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 自業自得でラフェールに敗北した末、自分の身代わりになる形で表遊戯の魂が奪われたことによる闇遊戯の不調と焦燥を描くパートの一部というわけである。今だったら闇虐とか言われてそう(?)

 闇遊戯を豆腐メンタル扱いするネタはこの一連の流れから生まれたものであり、ドーマ編が叩かれがちな最大の理由もここにある。今の感覚だと豆腐メンタルとは別に思わない(むしろ曇る原因がしっかり描かれてるのにすぐそういうこと言う昔の風潮がどうかと思う)が、それにしても原作でほぼ無敗の主人公に対してあまりにも執拗極まる痛めつけだとは確かに思う。

 

 だが……本当に大事なのはここからだ。

 ドーマ編の闇虐(?)は決して虐で終わってはいない。ドーマ編の闇遊戯はラフェールに負けてからの曇り期間ばかりが取り上げられる傾向にあるが、これは「溜め」であって決して単なるキャラsageで終わってはいない。

 普通こんなことアニオリでやるかというほど中盤ずっと闇遊戯を追い込み、当然ながら陰鬱な空気がずっと続き、その中で心の闇と向き合わせ、長いトンネルを抜けた先に待っていた。原作とは別ベクトルのダークヒーローとして成長を遂げた主人公の姿が。

 それが現れるのは終盤、最終決戦直前のラフェールへのリベンジマッチからだ。2戦目での闇遊戯は敗北の屈辱もモンスターを犠牲にする戦術を煽られたことも引きずっておらず、1戦目とは逆にラフェールがオレイカルコスの結界を使用し、ラフェールの心の闇を掘り下げていく戦いとなる。

 前回の戦いで発動できなかった伝説の竜のカード(ティマイオス)を使い、前回の戦いで闇遊戯を倒したガーディアン・エアトスを破り、この時点で前回のリベンジには成功した……と思ったところでラフェールの心の闇の具現化であるガーディアン・デスサイスが現れ、伝説の竜をあっさり倒される。過酷な過去から生まれた「モンスターを墓地に置かない信念」を曲げてしまったラフェールを前に、心理フェイズ的にもデュエルの状況的にも逆転できるカードはもはや無いように見えたが、そんな中でも耐え続け、

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 「何がお前を支えている?」という、割とよくある問いに超カッコいい答えを返す。

 「見えない答えを探す心と心の戦い」をこれほどまでにカッコよく表現したセリフを私は見たことがない。

 そして……

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 闇遊戯の言葉はラフェールには響いていないように見える。だが……
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 後の不動遊星にも通ずる、鈴木やすゆき遊戯王主人公の真髄が出ている。

 「俺が救ってやる」を体現したかのような、ある意味非常に傲慢な物言い。しかしカッコよさがウザさを大きく上回ってしまうのは「相手の心の答えを探そうとする熱量」「相手が元々持っている絆を大切に扱う」「相手が自力で解決できない痛みを引き受ける」姿勢の、嘘じゃないと感じさせるパワーが凄いからだ。遊戯側ラストターンの「お前ができないのならオレが会わせてやる!」のセリフにそれが端的に現れている。

 そしてこのラフェール2戦目のラストターン、最初のグリモ戦で流れたっきりずっと流れていなかった「熱き決闘者たち」、闇遊戯のテーマBGMにしてDM自体のメインテーマがとても久しぶりに流れる。ドーマ編は闇遊戯が負けて凹んでいる期間が長かったため、DMの代表曲である熱き決闘者たちが中盤ずっと流れていなかったのだ。それがここにきてようやく流れる効果は非常に大きい。闇遊戯が復活した感、未知の恐怖を乗り越えた感を非常に強く印象付ける。

 

 しかし最終決戦、ラスボスであるダーツとの2vs1デュエル……

 これまでに戦ってきた敵とはスケールがまるで異なるダーツの底なしのチートと邪悪を前に、闇遊戯は何週もかけてジワジワと追い詰められ全てを失っていく。

 海馬と力を合わせた最強カードの究極竜騎士はあっさりいなされ、仲間たちの魂が封印されたミラーナイトとの戦いを強いられ、心の闇を乗り越えオレイカルコスの呪縛から逃れたはずのラフェールが再び心の闇に囚われて魂を奪われ、今回は最初からしっかり協力し合っていた海馬も脱落し、全ての仲間が意識を失い、ライフ2万・シュノロス攻撃力2万・オレイカルコスの三重結界を携えたダーツを前に闇遊戯は文字通りたった一人になってしまう。

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 とことんまで追い詰められたところにアイデンティティクライシスを煽る心理フェイズを仕掛けられ、自分にはもう何も残っていないと、再び心折れそうになるが……
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 この「何もかも失った自分の底にそれでも残るものは何か」という問いの立て方、非常に抽象的だが一つの本質を突いている「記憶の器」という答え。鈴木やすゆきとはまた異なる吉田伸の内向的な作家性をかなり感じる。色んな意味でVRAINS最終回の遊作とAiの抽象的なやり取りを思い出すところがある。

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 どう考えてもアニオリでやっていい内容を逸脱している。色んな意味で凄い。

 ここからはチートvsチートの戦いとなり、最終的には互いにライフ0の状態でデュエルを続行する異次元の領域に突入する。今までチートでありつつも順序立てた戦術で攻めてきたダーツも小学生が考えたような攻撃力∞の蛇神ゲーを切り札として出し、今まで基本的にはOCGのルールに従ってデュエルしてきた闇遊戯も対抗して王国編ばりの俺ルールをフル稼働。その間ガンガンに流れる熱き決闘者たちが色んな意味で「闇遊戯が帰ってきた」感を印象付け、長いデュエルに漸く決着の時が訪れる。

 ところがここからがダーツの凄いところであり、デュエルに負けてもオレイカルコスの神を召喚して遊戯たちとの総力戦リアルファイトに入る。二段構え三段構えの切り札を備えた巨大スケールのラスボスは後のアニメシリーズでも定番となっているが、デュエルに決着がついてもリアルファイトで2週も3週も食い下がるのは後に例がない。

 死闘の末にオレイカルコスの神も撃退し、皆の魂も戻ってきて今度こそ本当に決着がついたと思ったその時、まだ生きてたダーツは地球の心の闇なる存在を携えて闇遊戯に最後の一騎討ちを挑んでくる。そろそろ製作者の正気を疑い始め、もう終わりでよくないか……と思いながら入るドーマ編最終回。

 先に結論を言うとドーマ編最終回は半分くらい回想が占めるほぼ総集編であり、残すは闇遊戯の最後の戦いだけで物語はほぼ終わっている。では、見所がないのかというと……

 開幕即、BGM熱き決闘者たち。f:id:kumota-hikaru:20211011221540j:image
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 ドーマ編最終回、この闇遊戯のアンサーのなんと美しいことだろうか。

 何が素晴らしいって、

①過ちを犯した時(相棒の制止を振り切ってオレイカルコスの結界を使ってしまった時)と同じセリフをあえて使うことで、「あの時とは違う」を逆に強調する理想的な「再演」。

②これまであらゆる意味で原作から逸脱したラインを歩んできたのが、ここにきて原作の最終章でもある「いつか必ず来る相棒との別れ」に帰着するテーマの合流の上手さ。

③DMという作品特有の文脈を置いておいても、単純に「いつか来る別れ」テーマへのアンサーとして極めて美しい。「いつか必ず別れは来て、独りで戦わなきゃいけなくなる」という切なさを認めつつも、「独りで戦うのは自分自身の正義と信念を貫くためだ」とそのことに前向きな意味を持たせ、自ら独りの戦いに飛び込んでいく姿を描いている。
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 ここからはドーマ編自体の話からは少し外れるが、この「いつか来る別れ」「最後は一人の戦い」テーマは、原作遊戯王のそれとはまた別に吉田伸の作家性として後のアニメ作品でも何度も扱われている。
 ZEXAL終盤のカイトの「俺で慣れておけ」やアストラルとの別れをめぐる物語。「心の闇」のワードを使わなくなっても「心の闇」シリーズで扱っていたテーマは消えていない。

 その中でも、現時点で吉田遊戯王の最終作となっているVRAINS3年目の文脈はドーマ編のそれと相互補完の関係にあると思う。f:id:kumota-hikaru:20211011235350j:image
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 ドーマ編は道中で色濃い絶望を含みながらも前向きに終わっていたが、「心の闇」や「最後は一人」を突き詰めていくと、結局「どうやっても無理な者もいる」に行き着く。

 VRAINS3年目は繋がりの喪失をテーマにしていた。ソウルバーナーを自力で立ち上がらせるためのデュエルをリボルバーが成功させた一方、リボルバーのやり方でそれを見ていたAiを勇気づけることはできず、主人公である遊作も相棒だったAiの生きる気力を復活させることができぬまま終わる。

 時代が進み、個人個人の心の闇をより細かく見ていくようになるにつれ、このような描き方が色んな作品で目立ってくるのは当然のことだ。どうやっても救えない者だってこの世にはいる。万人を「救う」ことができる一つのやり方などというものはこの世にはない。個人の苦しみを尊重するとはそれを認めることだ。

 だが……ある人物が自らの心の闇をどうやっても克服できないか、どうやっても自力で立ち上がる・他者が手を貸して立ち上がらせることができないかどうか、それは最後まで試してみなきゃわからない。VRAINSでもそのように描かれていて、メイン4人の抱えた課題も最後までどちらに転ぶかわからなかった。

 だから「どうやっても無理な者もいる」という事実を認めた上でなお、ドーマ編の闇遊戯がたどり着いた「光の器」という一つの答え、

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 そして「見えない答えがそこにあると信じて探し続ける困難さ」そのものを自らの支えとした姿勢は、今でも輝きを失っていないのだ。f:id:kumota-hikaru:20211012002109j:image
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チーム・サティスファクションは本当にネタなのか?~FC編からダグナー編までの遊戯王5D'sを振り返る~


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 チーム・サティスファクション。

 2008年~2011年に放送され、今でも根強い支持を誇るアニメ『遊戯王5D's』の、言わずと知れた屈指のネタ要素。

 その人気は令和の今となっても衰えを見せていない。最近ではOCG最新パックのセイヴァー新規に合わせた54~55話(vs鬼柳2戦目)の無料配信、現行作品SEVENSの新OPにサティスファクションの語があったことからトレンド入りしていたのが記憶に新しい。

 リアルタイム放送時もチームサティスファクション初登場時(32~35話、鬼柳との初戦での回想において)はその絶大なインパクトからネットが大盛り上がりしてた記憶があるし、あの辺りから本格的に5D'sが盛り上がり始めた実感が確かにある。ダークシグナー編終了後はネットでのウケの良さに公式も味をしめた節があり、クラッシュタウン編ではネタに乗っかってる感がかなりあったし、その扱いが今でも続いているような気もする。

 

 だが少し待ってほしい。

 チームサティスファクション、及びそれを象徴する鬼柳京介というキャラは、果たして初登場時のダークシグナー編当時、そこまでネタ一辺倒の扱いをされるような描かれ方だったのだろうか。

 これは以前から薄々感じていて、この前の無料配信で見返して改めて思ったことだ。別にネタ要素を否定するわけではない。天然のオモシロ台詞回しやオモシロ絵面、声優の熱演がすごい頻度で挟まってくるのは事実だ。

 しかしそれと同時に、鬼柳のエピソードはフォーチュンカップ編からダークシグナー編にかけての前期5D'sの世界観やテーマを象徴する、極めて陰鬱でシリアスな話でもある。そしてこれを語るには、前期5D'sの作風や主人公である不動遊星のあり方がいかなる文脈に基づいていたかから紐解いていかねばならない。

 この記事ではFC編からダグナー編にかけての前期5D'sにおける遊星のあり方、全体的な作風やテーマの概観を改めて行い、その中でチーム・サティスファクションについても語っていきたい。

 

フォーチュンカップ編(1話~26話)における不動遊星の主人公性

 

 閉塞感。

 5D'sの初期2クール、フォーチュンカップ編を一言で表すとしたらこの言葉だろう。

 今でこそ5D'sはアニメ遊戯王屈指の人気作だが、放送開始当初はそれほどの勢いがあるとは言えなかった。今でこそぶっ飛んだ1話として受容されているが、当時は「なんでバイクに乗ってデュエル?」「リリース(笑)」「アドバンス召喚(笑)」。

 そして当時も今も、フォーチュンカップ編の評価はダークシグナー編以降に比べて高いとは言えない。それは主人公である遊星のキャラが定まりきっていなかったことも手伝い、全体的な「華」のなさ、とっつきにくさが強かったからだ。

 遊戯王と言えば人死にや鬱で今では有名だが、5D's初期2クールは構成を担当していた冨岡淳広の作家性も手伝い、差別や地域格差を軸に据えた「社会全体を敵に回している感」が強く、他のシリーズと異質な閉塞感を醸し出している。被差別地域であるサテライト出身の遊星は会う人会う人に最初は舐められ、巨大な権力を持ったセキュリティの掌の上から簡単に脱することはできない。

 メインキャラは中々揃わず縦軸もよくわからず、おっさんばかり画面に映る暗くて地味な話が続く。マーカーを顔に刻印されてデッキを奪われたり、故郷に置いてきた仲間たちを人質に取られたりと試練ばかり。物語開始当初の遊星はスターダストを奪われており他に強いカードもあまり使っておらず、後がない崖っぷちの状況での孤独な戦いの連続。当時は「前作GXに比べ全てを吹っ飛ばす超展開が足りない」とまで言われていた。

 

 しかし、だからこそ。閉塞感過剰で出口のない世界観だからこそ、恵まれないスタートラインからたった一人で状況を一つ一つ覆していき、出会った人間を感化していく遊星の主人公パワーが半端ない。

 当初のいわゆる無口遊星はそれほどキャラが定まっていたとは言えず、掴み所のない印象も強かった。だが監獄編での10話(vs鷹栖所長)における一幕は、あまり話題にされないが5D's全編を通してトップレベルなのではないかというくらいにイケメンパワーが凄い。一緒に脱獄しようと持ちかけてきた青山に「仲間を置き去りにしたその先に本当の自由などない」と言って冷たく断ったにも関わらず、所長とのデュエル中に青山が単独で脱獄したのを知らされての心中が「逃げ切れ。そのくらいの時間は俺が稼いでやる」。この時点でちょっと普通ではない。

 そして明確な転機は11話~12話(vs牛尾3戦目・雑賀回)だろう。遊星がはじめて「絆」のキーワードを語った回であり、未収録BGM・通称「絆のテーマ」がはじめて流れた回だ。この回でダークシグナー編までの遊星の方向性、ひいては作品全体のテーマが決定付けられたと言っていい。

http://nitijonosyo.blog60.fc2.com/blog-entry-1003.html

「確かに、仲間という言葉はまやかしかもしれない。

 だが、絆が残っていれば、それは確かなものとなる。

 だから俺は、その絆を取り戻しに来た」

「……くだらないなどと言うな。

 仲間との絆。あんただって大事に持ってるじゃないか。あのカードを」

https://netkatu.com/post-446

一度はジャックにより裏切られた。
しかし遊星は一度の裏切りくらいでジャックとの繋がりを断たなかった。

確かな絆の存在を信じ、ジャックを追いかけてきた遊星。

そんな遊星の思いが周りの人達にも伝染していくから本当にカッコイイ主人公である。

そのためだけにサテライトから出てきたからね…

 

 ここにこそ初期遊星の本質が詰まっていると言っていいだろう。

 初期遊星の戦いは基本的に孤独だ。ジャックには裏切られていて、ラリー達はサテライトに置いてきている。本来の仲間たちは遊星の隣にはいない。

 にも関わらず遊星が「仲間との絆」を見据えて迷わず進み続けているのは、遊星にとっての「絆」が「裏切られても離れ離れになっても、それでも消えないもの」だったからだ。ダークシグナー編までの(そして最終回での)5D'sの「絆」は「必ずしも今隣にいない者との絆」の意味合いが強く、だからこそ独特の強度を持っている。

 

「そうだ、あんたの相棒は、あんたのことを許している。
  いや、そんなこと、考えたこともなかったろう。
  彼の考えはたった1つ。
  あんたとの絆を、守りたかった。
  あんたとの絆を、断ち切りたくないから、
  あんたとの絆を、大切にしたいから……。
  絆がある以上、あんたらはずっと仲間なんだ。
  俺にも、仲間がいるように。
  だから俺は、絆のために闘う!!」

 

 この回で遊星が雑賀に語った内容は直接ユージ本人に確認を取ったわけではない遊星の想像と言ってしまえばそれまでであり、細かく見ていけば突っ込み所の存在しないものでもない。

 だが私はリアタイ男子中高生当時、心の半分では「1クール目も終わろうとしているのにヒロインすら出さずよく分からないおっさんの掘り下げやってるこのアニメ何なんだ……」の気持ち、心のもう半分では「でも今回の遊星はいつもとオーラが違うな……」の気持ちだったし、その後もずっと印象に残っていた。

 雑賀は裏切られて傷ついているのではなく裏切って傷ついている側であり、かつ最初から遊星になんだかんだ協力的で、彼の苦悩は遊星の目の前に差し迫った危機(牛尾)とは無関係であり、解決しなければ前に進めないようなものではなかった。にも関わらず自らの信念で真っ直ぐ踏み込んでいき、具体性のある例示を通して一緒に解決しようとしてくれる遊星の姿、ターボ・シンクロンの「自分より強い敵に向かっていき、傷つきながら仲間を呼び出す」効果に象徴されるそのあり方に、一種の「真摯さ」を感じたからだ。「真摯さ」というものは「主張の内容がレスバ的に正しいかどうか」とはまた別の軸として存在するし、最終的には真摯な方がレスバも強い(見えているものがより多いからだ)。

 この「すれ違おうが拒絶されようが俺が仲間だと思ったらお前は仲間なんだ」をとことん貫くパワー、「力になりたい相手の内面に踏み込み、相手が最初から持っているものを指摘する」傾向が初期遊星の牽引力の源になっている。同じ鈴木やすゆき脚本であり、フォーチュンカップ編のもう一つの白眉でもある23~24話(vsアキ1戦目)も同様だ。

http://takaba1192.livedoor.blog/archives/2684202.html

「この痣は確実に俺たちを繋いでいる。奴らはそれに気づき利用しようとしているのか。
  十六夜を取り巻くあの連中も結局はシグナーとしての彼女を…。
  俺たちは利用されてはいけない」

「そのためにも彼女の閉ざされた心をこじ開け本当の十六夜に会わなければ…。
  全力でいくしかない。俺の全存在をかけて十六夜と向き合わなければ…」

「そして この戦いの果てに お前がいる…」

 決戦前の目標設定の時点でオーラが違う。同じシグナーとしてのジャックやアキとの繋がり、ゴドウィンやディヴァインといった汚い大人達に掌の上で踊らされている現実を知った上で、「利用されてはいけない」と大きな目標を打ち立てつつ、そのためにアキと全力で心理フェイズをやることを決意し、その先にはずっと望んでいたジャックとの再戦を見据えている。

「考えろ!お前自身が!」
「逃げるな十六夜!」
「その喜びを否定するお前がいる。その思いがある限りやりなおせる!
 お前自身を救い出す事ができる!」

 この微妙に精神攻撃っぽい心理フェイズ、そして強引に踏み込みつつも相手が自力で解決できない痛みは自分が一身に引き受ける(暴れるアキとブラックローズから観客を守って自分とスターダストだけが傷つき続ける)姿が、いかにも鈴木やすゆきの描く遊戯王主人公らしい。

 アキは同情できる過去こそあるものの今は破壊を楽しむ心があるという前置きがあり、そこからの「だがお前にはその悦びを否定する気持ちがある、だから自分自身を救い出せる」という展開が遊星独特だ。仲間を裏切った側である雑賀やジャックもそうだが、遊星が絆を感じたり助けようとしていた相手はどいつもこいつも何かしら否定のしようがない後ろめたい部分を抱えている。普通なら自業自得で切り捨てられても仕方ないような行動のキャラばかりだ。だからこそ、それを認めた上でなお見据えた絆がブレず、見えるけど見えない道を語る遊星の「普通じゃなさ」が際立っている。想定外の角度から来る優しさや強さがいかに心に染みるか、切なさと相互に引き立て合うか、だ。

 

 上記の雑賀回とアキ回でダークシグナー編まで続く初期遊星の方向性は完成されたと言ってよく、改めてアニメ遊戯王のテーマ面に占める鈴木やすゆきの貢献度の凄まじさを感じる(DMドーマ編の海馬とアメルダ、闇遊戯とラフェールの決着をキレッキレの台詞回しと圧倒的な熱量で描き切ったのも彼だ)。

 そして、前置きが本体レベルで長くなったが、ダークシグナー編、本題のチーム・サティスファクションの話に移る。

 

ダークシグナー編(27話~64話)と鬼柳京介の物語の暗さ

 ダークシグナー編前半はリアタイ男子中高生当時、とても楽しく見ていた記憶がある。

 「閉塞を抜けて世界が広がったワクワク感」が強かったからだ。フォーチュンカップ編の「華のなさ」はダークシグナー編に入って劇的に改善される。遊星がジャックに勝ってニューキングになってしまいシティの既存の体制を打ち倒したことで、これ以後遊星たちがサテライト出身の出自に悩まされることはかなり減る。

 遊星テーマをはじめとする新BGM、これまで全く見たことのないダークシンクロ、続々と出てくる新キャラ、それまでの物語の枠を外れて流動化していく状況。とにかく今までの世界観が差別的・抑圧的な息苦しさに満ちた閉塞的なものだったため、謎の敵ダークシグナーの引き起こす混乱はむしろ痛快にすら感じた。全体的に絵面も派手になり、ジャックも元キングに落ちてどうなることかと思いきや、新キャラのカーリーとの予想外との絡みをフックにむしろここからが本番と言わんばかりの反省と再起を果たしていく。

 そんな中で登場したのが鬼柳京介だった。クールキャラの予想に反して笑い方の楽しそさと声優の怪演が凄い中、遊星とダークシグナー鬼柳のデュエルの中でチーム・サティスファクションの過去開示が始まるが……f:id:kumota-hikaru:20210716092529j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092548j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092607j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092626j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092642j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092659j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716092717j:image

 ギャグっぽい印象に反し、チーム・サティスファクションの結成経緯はフォーチュンカップ編から続く「差別的・抑圧的な社会」テーマを直球で取り上げた重いものだ。

 どうして「満足」をキーワードにしているかって、「狭くて貧しい被差別地域から出られない若者の閉塞感」が遊星たちの共通のバックボーンにあり、だから「ここで満足するしかない」、という話なのは明らかだ。どうやったってサテライトから逃げることはできない。田舎や離島の閉塞感、黒人ゲットー、現実に例えるならそういう系のテーマだ。

 放送当時はそれらがあまり人口に膾炙していなかったせいかもしれないが、そういう文脈が見えてくると一気にしんどい話に感じられてくる。絵面はオモシロだしやってることはヒャッハーだが、だからこそ「ここで満足する“しかない”」切なさが浮かび上がってくるし、物語的にも後に実際そうなる。f:id:kumota-hikaru:20210716095504j:image
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 殺し合う境遇になってもかつて仲間と呼び合った鬼柳を諦められない遊星は、フォーチュンカップ編でジャックとの絆を取り戻すために戦っていた時と同じであり、雑賀回で語った「絆」観がここでも通低している。それはそれとして絵面のオモシロさも凄い。

 しかし遊星は鬼柳の手で初召喚となった地縛神に事実上の敗北を喫する。コカパク・アプはガチャピンとネタにされるが、見た目的にいまいち普通のモンスターとの違いがわからなかったダークシンクロからの、超巨大で異形感たっぷりで効果もぶっ飛んだ地縛神のインパクトは相当なものだった。ここから更にアルカディアムーブメント編、カーリーのダークシグナー化、2体の地縛神登場と続く怒濤の展開の引き込み力も凄まじい。f:id:kumota-hikaru:20210716114843j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114854j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114908j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114920j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114932j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114944j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716114956j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716115012j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716115032j:image

 カーリーはダークシグナー化、ディヴァインが退場してアキが一人に、今までずっとブレることなく進んできた遊星も本編中初敗北で自信喪失……と、地縛神に圧倒され状況が目まぐるしく変化する混迷と絶望感からの、ダークシグナー編前半の山場でありアキを正式に仲間に入れる40~41話(遊星vsアキ2戦目)。

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 この回の主役は当然遊星とアキなのだが、個人的にはデュエルをしていないジャックの潤滑油ムーブが素晴らしい。アキを救出したのはジャックだが彼にアキと通じ合う力はなく、しかし遊星のことはもう認めていて遊星ならアキを救えると見込み、鬼柳に負けて挫けつつある遊星の背中を押して奮起させるためにもアキと引き合わせ、自分は双子の保護者的ポジションで遊星とアキの決着を見守る。一見目立たない役割に見えるが、バラバラになりつつあったシグナーたちを繋げたのは間違いなくジャックだ。f:id:kumota-hikaru:20210716121015j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716121033j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716121047j:image
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 鬼柳を助けられなかった経験を背景に、しかし単純な無力さに終わらないこの台詞にも遊星の良さ、純粋な真摯さがよく出ている。人を救う力を現実に持っている遊星だからこそ、人を“救う”ことが簡単にできないこと、自分にできないことがあることをよく知っている。だから「そうだオレには力などない!(即答)」なのだ。

 こう言いつつ1戦目と同様に遊星は必死にアキと向かい合って周りを守りながら自分だけが傷つき、その姿が観戦していたアキの父親の心を動かして解決を促している。地縛神に敗北したことに凹みつつ、この時点で地縛神の対策となるカード(魔法・罠の効果を受けないアニメ効果地縛神に触らず戦闘ダメージを0にする系)をしっかりデッキに投入していて、次の地縛神との対決で早速使うのも話が早くて良い。f:id:kumota-hikaru:20210716123853j:image
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 この「前向き過ぎず、しかし無力でも後ろ向きでもない」遊星の立ち直り方、静かな決意と切なさが共存した表情と台詞の雰囲気が前期5D'sらしい。

 そして先にも少し述べたが、この辺りのジャックは遊星の影響を受けながらも決して取り込まれきっておらず適度な距離感を保っている。そしてだからこそ生来の奔放さを強さに変えて遊星にはない視点を持てる、遊星が停滞している時に背中を押せるという描き方が素晴らしい。

 ジャックは遊星の言う絆が自分の支えになっていたことを理解したが、その上であくまで己が道を行く。だからこそ取り巻きに甘んじず遊星と補い合うことができる、そういう仲間のあり方だ。これは最終回でも同じ。
 フライング気味になるが、f:id:kumota-hikaru:20210716131437j:image
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 58~59話(ジャックvsカーリー)の決着時のこの台詞にそれがよく出ている。遊星たちを思いやることのなかった過去の自分を同話でジャックは否定しており、それ以外でも「今の俺はキングではない」を頻繁に口にして過去の自分との決別を明確にしているが、しかし決して自分自身の幸せを追求することを否定したわけではない。
 「孤高の光」のサブタイトル、そしてダークシグナー編後半の決戦編では他全員のデュエルで遊星が観戦に現れて何かしら関わっているのに対し、ジャックのみ遊星が干渉することなくギャラリーのいない二人だけの決着をつけていることからも、「ジャックはあくまで独自の道を行く」という製作側の意図が見て取れる。

 他の遊戯王キャラだと、ジャックとは一見真逆のキャラ性に見えるが遊作が近いテーマを持っているように感じる。ギャラリーのいない二人だけの決着をAiとつけたところも、「それでもあくまで自分の道を行く」という性質も(こういうテーマをやりやすいポジションはどこかと考えると、やはり遊作は主人公より二番手向きのキャラだったようにも思う)。

 少々脱線しつつあるのでこのくらいにして、ダークシグナー編の続き、遊星vsルドガー1戦目の次から各キャラの因縁を一人ずつ消化していく決戦編に入るのだが……

 正直なところ、ダークシグナー編は前半(遊星vsアキ2戦目、もしくは遊星vsルドガー1戦目まで)はトップクラスに楽しかったのだが、後半の決戦編は前半に比べて全体的に失速感が否めない。初っ端の龍亜龍可vsディマクが4週もかけて虚無気味の内容、その次のクロウvsボマーも悪くはないがそれほどでもなく、そもそもこの幹部連戦形式のテンポが悪い。各デュエルのクオリティや解決ロジックの説得力も全体的にムラがある。

 なのだが、この記事のタイトルは仮にもチーム・サティスファクション。放送当時も楽しみにしてたし、無料配信でも改めて見所の多さを感じた54~55話(遊星vs鬼柳2戦目)。ここで1戦目では明かされなかったサテライト制覇後のチーム・サティスファクションの様子が過去回想される。f:id:kumota-hikaru:20210716140451j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716140511j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716140532j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716140551j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716140604j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716140744j:image
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 この時点で相当にツラい。

 サテライトのデュエルギャングの頂点に立ったところでサテライトから出られない現実が変わるわけではなく、根本的な不満や閉塞感は解消できない。最初から分かっていたことだ。それでも「ここで満足する“しかない”」ため、祭りが終わったことを認められず手段が目的と化し過激化していく。f:id:kumota-hikaru:20210716142506j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716142519j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716142532j:imagef:id:kumota-hikaru:20210716142606j:image
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 最も飢えが激しかった言い出しっぺの鬼柳以外の3人はなんだかんだ、「結局は一時の退屈しのぎでしかない」「体制に喧嘩を売っても勝てない」という冷徹な現実が見えていた。それが一層、仲間も自分と同じ夢を見続けていると信じてこうなってしまった鬼柳の痛々しさ、仲間を大切にしすぎて鬼柳を見捨てられず自己犠牲になってしまう遊星という構図のしんどさを強調する。

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 「このサテライトからどこへ逃げるってんだよ!」

 この台詞にダークシグナー編のチーム・サティスファクションの物語の全てが詰まっていると言っていいだろう。めちゃくちゃ陰鬱で救いのない話である。

 その後は順当な経過を辿るだけなので省略する。結局チーム・サティスファクションは権力に歯が立たず敗北し、鬼柳は収監されて熾烈な虐待を受ける。鬼柳の自業自得と言ってしまえばそれまでだし、遊星への感情は100%逆恨み以外の何でもないが、通低しているのは最初から最後まで一貫して「被差別地域から出られない若者の閉塞感」だ。

 遊星は結局この戦いで鬼柳を救えずに終わるが、つまるところ鬼柳の抱えていた問題はサテライトを差別的な扱いに置く社会そのものの問題なので「絆」の強調だけで解決できるようなものではない。過去の遊星がどんな判断をしていようがどのみち鬼柳は救えなかった、といったところだろう。

 ただ、この「絆の強調だけではどうしようもない差別的・抑圧的な社会の問題を絆の強調で強引に突っ切る」傾向は結局ダークシグナー編のラストでも発動してしまう。悲壮なドラマと共に死んでいったダークシグナーたちはゴドウィン兄弟を除き雑に全員復活、カーリーに至ってはジャックとの関係そのものを事実上なかったことにされ、ジャックはそれ以後アーククレイドル編に入るまで非常に長い成長リセット。遊星の語る「絆」はほぼ単純な「今一緒に戦っている仲間との絆」の意味合いになり、サテライト差別問題は概ね解決したことになって以後ほぼ出てこなくなった。

 これについてはダークシグナー編自体の竜頭蛇尾感、消化不良感と言わざるを得ない。差別問題は扱いが難しすぎるため結局強引に突っ切るしかなかったと言えばそれまでかもしれないが、チーム・サティスファクションの過去話があれだけ悲劇として完成度の高い仕上がりだったのに……とは感じてしまう。絆の強調だけで強引に突っ切って差別的・抑圧的な社会を変えたことにするのではなく、絆や仲間のあり方を考えることから始まる具体的で長期的な社会変化の過程を見てみたかったようにも思う(フォーチュンカップ編がそれに該たると言えばそうかもしれないが)。

 ただ、ダークシグナー編ラストのレクス・ゴドウィン戦は、f:id:kumota-hikaru:20210716155406j:image
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 雑賀回以降のフォーチュンカップ編からダークシグナー編にかけての遊星やジャックの物語、「断ち切ろうとしても断ち切れないものが絆」という文脈の集大成でもあり、このデュエル単体で見た場合には悪くない(ジャックのかませ化や遊星の強引な絆連呼など、その後の良くない傾向の片鱗がこの時点で出ている感もあるが)。ここまでフォーカスしてきた回のほとんどが鈴木やすゆき脚本であり、改めて鈴木やすゆきの作家性の大きさも感じる。

 ここまでチーム・サティスファクションに……というより遊星、ジャック、鬼柳の背負ったテーマに焦点を当てて前期5D'sを振り返ってきた。

 最後の方は不満もあったし、実際ダークシグナー編終盤からWRGP編にかけては不満が大きい(再びチーム・サティスファクションの話がなされるクラッシュタウン編についても、ネタ的にはともかく物語的には特に見るべきところはないように思う)。ただ個人的に不満の大きかったジャックの成長リセットに関してはアーククレイドル編に入って巻き返しが始まるし、遊星の語る「絆」についても最終回でようやく、雑賀回で語った「離れ離れになっても消えないものが絆」に帰ってくる。

 前期5D'sについて考えることは5D's全体のテーマを、ひいてはアニメ遊戯王そのものに一貫するものが何かを考えることにも繋がる、私はそう感じている。